記号とは何を意味するのだろう?
今日はミハイ=チクセントミハイ氏(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」の冒頭箇所を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
意味とは記号を含むコミュニケーション過程であると言うとき、次のような疑問が生じる。「記号」とは何を意味するのか。物質的な人工物は、言うまでもなく家の中で私たちを取り囲んでいるもっとも具体的な物である。(中略)記号やシンボルは、十字架や結婚指輪のような物しか指さないと思っている人がいるかもしれない。その主要な機能は - もし何らかの機能があるとしたら - 宗教、業績、関係といったものを《表す》ことである。
しかし、テレビや家具のようにもっと明白な機能を持っているように見えるタイプの物に関してはどうだろうか。これらの物も「記号」としての資格を備えているだろうか。われわれの見方からすれば、それらも十字架やトロフィーと同じように多くの意味を呈示している。テレビは、それなしでも生きることはできるが、確かに実用的な意味を持っている。しかしテレビの有用性は、娯楽と情報の手段としての地位と、私たちの文化において一日の四分の一がテレビ視聴に費やされているという事実に由来する。
ある物が誰かにとって「何かを意味する」というとき、それは、過去の経験という文脈や意識的であれ無意識的であれ習慣として解釈される。(中略)シンボルは直接的状況の外側に客観的に存在する感情や態度の伝達を可能にし、この自己意識の発達は一般に人類最大の成果だと考えられている。感覚を直接的環境から解放することで、人はそれらを抽象的レベルで扱うことができるようになり、それによってある程度まで大きな自己統制と環境支配が達成される。シンボルを通して、恐怖や愛、畏れといった経験は、言葉や絵、儀礼的な行為で伝えられるようになった。
「記号とは何を意味するのか。」
著者のこの問いが印象的でした。「記号」とは一体何なのでしょうか。
まず自分事として「記号という言葉から何を連想するだろうか?」と考えてみると、まず、数学で使われる記号が思い浮かんできました。四則演算(+ー × ÷ )や集合に関する記号(∈や⊆)。数や文字も抽象的な記号ですね。
とても抽象的ですが、要素同士の関係性(要素と要素を組み合わせると何になるか?それらはどのような包含関係にあるか?)がその中心にあるように思います。
そして、自分の中では抽象的な「記号」を具体化していくと「記号らしさ」が、なぜか薄れてゆくような気がするのです。
そこに「テレビや家具のようにもっと明白な機能を持っているように見えるタイプの物に関してはどうだろうか。」と、著者が具体的な物も記号として取り扱うことができるだろうか、と問いかけてきたのが新鮮でした。
いったん「記号」のことは忘れて、日常生活の中でテレビやテーブル・椅子などの家具とどのように接しているか思い浮かべてみます。
テレビであれば画面に相対したり、何か作業をしながら耳だけを傾けたり。いずれにせよ注意を傾ける対象となっています。椅子であれば、自分の体重をそこに預けることが主になります。テレビとは逆に、自分の身体に適した椅子は意識から外れてゆきます。
「テレビの有用性は、娯楽と情報の手段としての地位と、私たちの文化において一日の四分の一がテレビ視聴に費やされているという事実に由来する。」という著者は述べています。
「機能性」というと「物に何ができるか?」という「物の視点」になる気がする一方、「有用性」と表現すると「私にとってどのような存在か?(どのような意味があるのか?)」というように視点が「物から人へ」移ってゆく気がします。そして、自分の感情というのか「物の心地」に意識が向いてゆきます。
「シンボルを通して、恐怖や愛、畏れといった経験は、言葉や絵、儀礼的な行為で伝えられるようになった。」「ある物が誰かにとって「何かを意味する」というとき、それは、過去の経験という文脈や意識的であれ無意識的であれ習慣として解釈される。」という著者の言葉を借りれば、何かしらの注意や感情や行為を引き出すもの全てが「記号」と言えるのかもしれません。
それが具体的であろうと抽象的であろうと。