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触覚はつねに外に向かって「開かれている」

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「触れることで生き延びる」を読みました。これで本書を読み終えます。

昨日読んだ内容を少しだけ振り返ると「触れることで理解する」という話がありました。「触れることで理解する」とは一体どのようなことなのか。著者が自身のエピソードを紹介していました。

あるときまで10を超える足し算ができなかった。何故ならば自分の手には指が10本しかなかったから。数える時に指を折ることで数えることに「実感」が伴っていたから、10を超える足し算では実感が伴わなかった。

それが、そろばんの使い方を覚えたことで10を超える足し算ができるようになったそうです。そろばんの玉の一つひとつが「数にふれる」感覚を与えてくれたから。

算数計算のような「概念」も実体が与えられ、ふれることで理解ができる。人はふれることで何かを分かろうとしているということ。頭ではなくて身体で理解する。身体が先で頭が後。そんなことを思いました。

さて、今日読んだ範囲では「」というテーマが展開されていました。

大切なのは「物理的な実感」

著者は「人間が深く自分の存在を確かめたいときに、触感が大事になるのではないだろうか」と述べます。どういうことなのでしょうか。ヒントとして小説家である村上春樹氏の言葉を引用しています。

僕らが会って話をして、でも何を話したかほとんど覚えていない(...)、実を言えば、それは本当はどうでもいいことなんじゃないかと思っているんです。そこにあったいちばん大事なものは、話の内容よりはむしろ、我々がそこで何かを共有していたという「物理的な実感」だったという気がするからです。

「物語があるところ・河合隼雄先生の思い出」『職業としての小説家』

「そこにあったいちばん大事なものは、話の内容よりはむしろ、我々がそこで何かを共有していたという「物理的な実感」だったという気がする」

この言葉に触れたとき、たくさんの人の顔が頭に浮かんできました。誰かと話している場面。何を話したか覚えていることもあれば、覚えていないこともある。その時間、その場所と一緒にある人の顔が思い浮かんでくる。

つながりの記憶。自分と誰か。自分と何か。自分とどこか。自分といつか。その記憶には「空気」がある。身体がその瞬間の空気を覚えている。実感を伴うのは、実感を与えるのは触感なのかもしれないと思える。

頭の中で時間を巻き戻して、その瞬間を追体験することができる。例えば、舞台の上で演奏した時のこと。舞台の上だけではない。舞台裏、舞台袖。乾いた空気、靴が触れたときのしっとり固い床の感触。

密を避ける、接触を極力避ける世の中になってしまったけれど、それでも、身体を通して誰かと何かを共有できる瞬間があるとしたら、その実感を大切にしたい。そう思うのです。

触感を持っているからこそ、人に優しくなれる

著者は「触感を持っているからこそ、人に優しくなれる」と述べます。一体どういうことなのでしょうか。

 皮膚感覚で直感的に感じるもの、「物理的な実感」ともいうべきものを、最後の最後は信じるように思います。目をつむる、耳を塞ぐ、鼻をつまむ、口を閉ざすことはあっても、触覚は逃れようがありません。どんなに視聴覚メディアが発展しても、私と世界とをつなぎとめている触覚は断つことができないのです。触感とはライフタイムにわたって人間の根幹を支える、とても重要な感性です。私たちは触感を通して相手を思いやり、相手がしてくれたことに感謝を覚えるようになります。触感を持っているからこそ、私たちは人に優しくなれるのです。

「目をつむる、耳を塞ぐ、鼻をつまむ、口を閉ざすことはあっても、触覚は逃れようがありません」

触覚を閉じることはできない。つまり、身体は、触覚は外に向かって開かれ続けているということではないでしょうか。外に開かれているということは「外とつながっている」ということでもあるように思います。

触感を通して思いやる。この言葉にふれて「手をあわせる」ことを思い出しました。私はヨガを習い始めて10年になりますが、レッスンの最後はいつも手をあわせて「ナマステ」と復唱して終わります。ともに同じ時間と空間を共有して下さった方々への感謝、場所への感謝。

食事をするときには手をあわせて「いただきます」。食事をいただいた後は手をあわせて「ごちそうさまでした」

「手をあわせる」というのは自分で完結する行為ですが、意識のベクトルは自分自身を超えて、他者そして自分を取り巻く環境全体へと向かっている。

意識の外に追いやっていた「ふれる」感覚の大切さを取り戻すきっかけを頂いた本書に感謝したいと思います。


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