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「物」を取り囲む環境まで含めて「事物」という。
春。
道端に色とりどりの花が咲きはじめ、外を歩いているだけで気分が和む季節になりました。
晴れの日、曇りの日、雨の日。
いつもの同じ道を歩いて、今日もまた咲いている花をじっと眺めていると、降り注ぐ光の明るさによって、花々の鮮やかさ、印象は変わってくることに気がつきます。
風のそよぎ方によっても印象は変わってきます。
風の強い日、やわらかな風がそよぐ日、無風の日。
風の強い日はじっと耐え忍んでいるような揺れ方、やわらかな風がそよぐ日は優しく語りかけるような揺れ方、無風の日は「気付いてほしい」と揺れることなく語りかけているような。
つまり、花の印象はそれ自身で決まるものではなく、周囲の環境との関係性によって移ろい続けている。ある物を理解しようとするとき、得てしてその物だけを取り出して考えてしまうことが多いのではないでしょうか。
ですが、本当はその物が「どのような環境に置かれているか」までを含めて眺めてゆく必要があると思うのです。環境との相互作用を「事」だと捉えるからこそ「事物」というのではないでしょうか。
そのためには、ある一点に集中するのではなく、全体をぼんやりと包み込むような見方も必要。集中から抱握へ。
まったくの漆黒の闇の中に置かれた薔薇の花は、本当に赤いのだろうか。その薔薇が本当に赤いかどうかわからないのに、わたしたちはその薔薇は赤いと考え、想像してしまう。他の事柄についてもわたしたちは、それはまったくそうであるにちがいないというふうに、自分の想像や考え通りに現実が存在していると思ってしまうのだ。
人はみな、監獄の中の囚人だ。その監獄とは、自分の感性と癖のある考え方のことだ。自分の感性がとらえたものをありのままの世界の様子だと固く信じこんでいる。自分の癖のある考え方と似たような考え方を他の人もするのがあたりまえだと思い込み、少しも疑うことがない。