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話しかける意味と社会

今日は『わかりあえないことから- コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ)より第6章:コンテクストの「ずれ」から「「相手による」は文化にもよる」を読みました。

本節の主題は「文化の差異」です。

著者がコミュニケーション教育にたずさわる大阪大学コミュニケーションデザイン・センターでは様々なカリキュラムが用意されており、なかでもよく使われるのが「列車の中で他人に声をかける」というスキットだそうです。

つまり初対面の人に声をかけるわけですが、声をかける・かけない・場合による、の三つの選択肢のいずれを取るかは人それぞれ。場合による理由も、怖そうじゃない人、子ども連れ、相手が一人旅だったら、など。

「初対面の人に話しかけるか否かについて、諸外国でも日本と同じ傾向が見られるのだろうか?」というのが、本節の問題意識です。

初対面の人に話しかけるか否かは「自分」にもよる

海外でのワークショップで同じような質問をした時の反応について、著者は次のように記しています。

まったく同じワークショップをキャンベラ大学で行ったときに、同じ質問をオーストラリアの大学生、大学院生にぶつけてみた。「どんな場合に話しかけますか?」そこでも先のような答えが返ってきたのだが、その中に「人種や民族による」という答えがあった。これは相手によるのではなく、話しかける側のAさんがイギリスの上流階級の教育を受けていたら、自分からは話しかけないだろうと言うのだ。

「話しかける側のAさんがイギリスの上流階級の教育を受けていたら、自分からは話しかけないだろう」という回答の背景には、上流階級には「人から紹介されない限り、むやみに他人と話してはならない」というマナーが存在しているとのこと。

ここでは上流階級やそのようなマナーに焦点をあてるつもりはなく、むしろ「初対面の相手に話しかけるか否かは、話しかける側が置かれている文脈・環境に依存する」という点に注目したいと思います。

つまり、「初対面の人に話しかけるか否か」という判断は「自分の判断基準と話しかける相手の組み合わせのもとで行われる」ということ。話しかける相手につい意識を向けてしまうのですが、「相手に話しかけるか否かの判断を通して自分自身を再発見する」ということもあるのかもしれません。

初対面の人に話しかける意味と社会

著者は、オーストラリアやアメリカでは初対面の人に話しかけると答える人の割合が五割を超えることとあわせ、次のように述べています。

 アメリカのホテルに泊まって、エレベーターで他人と乗りあわせて無言でいるということはまずない。「Hi」とか、「How are you?」とか、とりあえず何かを言う。言わないまでも目で微笑みあったりする。さて、翻って我が日本と日本人はどうだろうか? たいていの日本人は、エレベーターに乗ると無言で階数の表示を見上げる。
 アメリカは、そうせざるをえない社会なのではないか。これは多民族国家の宿命で、自分が相手に対して悪意を持っていない(好意を持っているのではなく)ということを、早い段階でわざわざ声や形にして表さないと、人間関係の中で緊張感、ストレスがたまってしまうのだ。一方、本書でも繰り返し書いてきたように、私たち日本人はシマ国・ムラ社会で、比較的のんびり暮らしてきたので、そういうことを声や形にして表すのは野暮だという文化の中で育ってきた。

「声をかける」という行為は「自分が相手に対して悪意を持っていない」と伝える意味がある。なるほどと思う一方、日本では自分が知らない人に突然声をかけられたら、ドキッとしてしまうことが多いのではないでしょうか。

声をかけるというのは、「緊張を解く効果」を発揮する場合もあれば「緊張を与える効果」もある。これは受け取る側の反応であって、その人が属する社会・文化に依存しているのですね。

そう考えると、あらためてコミュニケーションという営みは、環境・文脈に依存する「相対的」なものであるように感じます。環境・文脈が多様だからこそ、コミュニケーションのあり方も多様になる。自分が良かれと思ったことが、相手にとっては逆の意味を持ってしまうかもしれません。

コミュニケーションについて考え、実践することは、自分と相手がそれぞれ置かれている環境・文脈について実践的に考えることと結びついている。

もちろんコミュニケーションにおけるHow toも大事だけれど、How toもまた環境・文脈に依存するのだから過度に固執することなく、相手と文脈を共有しながらお互いのわかりあい方(それをコミュニケーションと呼びたい)を生成的に模索してゆくことが必要なのだと思います。

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