霊媒(多様なものの器)としてのメディア
今日は『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第2章 日本の経済文化の本来と将来3. 編集的日本像」から「「向こう」からやってくるもの」を読みました。それでは一部を引用します。
折口は、とくに沖縄に残る祭りに注目しました。ノロと呼ばれる巫女、すなわち神の嫁たちが、ニライカナイと呼ばれる海の向こうから神を呼び寄せる祭りを見たんですね。そうして、これこそ、島国である日本の神の本来の姿ではないかと考えたわけです。
沖縄には、いまでもノロがいて、海の向こうから神を呼んでいます。でも、その海の向こう側というものが実態をあらわすことはありません。日本の祭りでも芸能でも、つねに「ゼア」と「ヒア」のあいだにメディアとしての人間がいて、神を呼び寄せて物語をもどいていくことのほうを重視しているんですね。このメディアとしての人間ということに、折口は気が付いたわけです。
私が「編集」や「編集工学」を考えるときに、じつはこの折口の考え方にたいへん大きな影響を受けました。そうか、メディアというのは「ゼア」と「ヒア」を媒介するものなのかと考えたんですね。
実際にも「メディア」という言葉にはもともと霊媒という意味も含まれているんです。つまり、ヨーロッパ文明の一番奥には、一神教的な世界観になる前の信仰の姿、さまざまな神がいて、それらを媒介する人間というあり方がひそんでいるはずなんです。
でも、本来の「メディア」というものを考えれば、あるいは折口が発見したようなことをもとにすれば、まったく違うパソコンのOSが生まれる可能性もあるのではないかと思うんですね。つまり、みんなが平等に同じデスクトップを使って、誰もがグローバルな情報にアクセスできる、というようなものではないものにもなりうるのではないかと思います。
「メディアとしての人間」という言葉が印象的でした。
ゼア(彼方)とヒア(此方)をつなぐ(媒介する)存在としての人間。元々メディアという言葉には「霊媒」という意味があったという著者の言葉を踏まえると、ゼアは「非日常」や「虚」、ヒアは「日常」や「実」と読み替えることができるのでしょうか。
想像と現実をつなぐ。理想を現実化する。
未来を現在に引き寄せる。過去を現在に引き寄せる。
著書はパソコンについて、メディアの本来の意味を参照しながら「みんなが平等に同じデスクトップを使って、誰もがグローバルな情報にアクセスできる、というようなもの"ではないもの"にもなりうるのではないか」と述べています。
「ではないもの」つまり「まったく違うパソコンのOS」とはどのようなものなのでしょうか?
「グローバルな情報」が「均一性・画一性」の象徴として用いられているのだとしたら、その対極にあるような「ローカル性」というのか、個人の内側にある「豊かな想像性」を外側に解放するような、自己組織化作用を有する触媒のようなOS。
そんなことを思いました。