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スクランブル交差点、阿吽の呼吸、そして心の通い合い〜動的な調和、縦横無尽に交差する流れのよどみなさ〜

「スクランブル交差点の流れ」

無数の人が行き交うスクランブル交差点。

自分の視界に映る他者の動きを捉えながら、立ち止まることなく歩き続け、そして向こう側へと渡りきる。

至る所で人と人が衝突するように思えるが、不思議と衝突は意識されない(ほどに少ないと思われる)。

まるで、人が人と人の間を「すり抜ける」ような感覚すら覚える。

これもまた一種の「調和」であるように思われる。

これは「動きの中にある調和」であり、よどみなく流れ続ける川のような、それも「縦横無尽に交差する流れ」である。

「よどみがない」とは一体どういうことなのだろう。

川の流れをイメージすると、全体の流れの方向が揃っているような状況を「よどみない」と捉えてしまうのだけれど、「縦横無尽に交差する流れ」の「よどみのなさ」とは一体どういうことなのだろう、という問いである。

もう一度スクランブル交差点に戻ってみる。

スクランブル交差点を渡る一人一人を流れの粒子と捉えてみると、動きの中で周囲の粒子の動きを予測しながら、その予測に基づいて微妙に速度を緩めたり速めたりしながら、少し前や少し後ろを通過している。

それも予備動作や「私が先、後」という明確な意思表示をすることなく、である。

これはまさに「阿吽の呼吸」という他なく、身振りや言葉を通すことなく、自律性を持った粒子が心を通い合わせている。

ここに「動的な調和」とそれを下支える「心の通い合い」が見出される。

連続体としての水特徴は、湿・冷・柔に関する水のイメージを除くすべての水のイメージの指向要素になっている。しかし、水の形態と、その見えに着目するとき、連続体としての水は、空間に作用して、その空間の方向、限定、およびまとまりを規定するものとしてイメージされる。

鈴木信宏『水空間の演出』

流動する水は「空間を方向づける線」を指向することについては、すでに流動の項(B1)で触れたとおりである。ところが、このイメージが、静止する連続一体な水によっても指向されることがある。空間の一部分に置かれた水平面状の連続一体な水が、視界の一端を越えて見えるとき、その水は「空間を方向づける線」を指向する。(中略)また線状の水が、同様の見えをとる場合にも、その水は「空間を方向づける線」を指向する。(中略)水が「空間を限定するもの」となることがある。(中略)このように、空間の側方または周囲に置かれた水が、視界を越えて見えるとき、その水は「空間を限定する量塊」という水のイメージを指向する。

鈴木信宏『水空間の演出』

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