スクランブル交差点、阿吽の呼吸、そして心の通い合い〜動的な調和、縦横無尽に交差する流れのよどみなさ〜
「スクランブル交差点の流れ」
無数の人が行き交うスクランブル交差点。
自分の視界に映る他者の動きを捉えながら、立ち止まることなく歩き続け、そして向こう側へと渡りきる。
至る所で人と人が衝突するように思えるが、不思議と衝突は意識されない(ほどに少ないと思われる)。
まるで、人が人と人の間を「すり抜ける」ような感覚すら覚える。
これもまた一種の「調和」であるように思われる。
これは「動きの中にある調和」であり、よどみなく流れ続ける川のような、それも「縦横無尽に交差する流れ」である。
「よどみがない」とは一体どういうことなのだろう。
川の流れをイメージすると、全体の流れの方向が揃っているような状況を「よどみない」と捉えてしまうのだけれど、「縦横無尽に交差する流れ」の「よどみのなさ」とは一体どういうことなのだろう、という問いである。
もう一度スクランブル交差点に戻ってみる。
スクランブル交差点を渡る一人一人を流れの粒子と捉えてみると、動きの中で周囲の粒子の動きを予測しながら、その予測に基づいて微妙に速度を緩めたり速めたりしながら、少し前や少し後ろを通過している。
それも予備動作や「私が先、後」という明確な意思表示をすることなく、である。
これはまさに「阿吽の呼吸」という他なく、身振りや言葉を通すことなく、自律性を持った粒子が心を通い合わせている。
ここに「動的な調和」とそれを下支える「心の通い合い」が見出される。