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読むことは「ふれる」こと〜ふれる(触れる)とはどういうことだろう?〜

「文章を声に出して読む」

その時、自分に何が起こっているのだろう。

朗読教室に通い始め、様々な作家の作品を朗読するようになり、早くも半年以上になる。

地の文、台詞。

「声」を一つとっても、抑揚、スピード、トーン、大きさなど、様々な登場人物、情景が感じられるように、いや、その文章、言葉に既に内在している「何か」が自然と立ち現れてくるように。

何度も口にしては、立ち止まり。

違和感や不自然さを削ぎ落としながら、時に大胆に、時に微妙に変化を付けながら、自分が言葉の向こう側の世界になじんでゆく。

声を出しながら、読むことを通じて、作品の世界にふれていく。

目に見える物事に物理的にふれる(触れる)こと、言葉の向こうに存在する世界にふれる(触れる)こと。

いつしか、その二つの「ふれる」に差はないと思えるようになっていた。

「ふれる」ことは、「私」と「私以外」という関係を超えて、向こう側にいる「私」がこちら側にいる「私」に向かって立ち上がってきて、手を取り合うような、そんな感覚を覚え始めている。

さまざまな物が存在する。人間たちが、贈り物が、犠牲が存在し、動物と植物が存在し、道具と作品が存在する。存在するものは存在の内に立つ。神的なものと神に反逆するものとの間において定められる覆い隠された宿命が、存在を通じて下される。存在するものに関する多くのことを人間は自由に処理することができない。わずかなことが認識されるにすぎないのである。よく知られたことは大まかなことにとどまり、よく習得されたことは不確かなことにとどまる。存在するものは、あまりにも容易にそう見えるかもしれないが、われわれの作ったものではないし、それどころかわれわれの表象にすぎないものでもない。われわれが以上の全体を一つのこととして熟慮するなら、たとえかなり大ざっぱなものであるにしても、われわれはおよそ存在するすべてのものを把握しているように思われる。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

そして、それにもかかわらず、存在するものを超えて、しかしそれから離れ去るのではなく、それに先立って、さらになお別のものが生起する。全体としての存在するもの〔das Seiende im Ganzen〕のただ中に、或る開けた場所がその本質を発揮する。空け開け〔Lichtung〕が存在するのである。それは、存在するものの側から考えられるならば、存在するものよりいっそう存在する。この開けた中央は、したがって、存在するものに取り囲まれているのではなく、空け開いている中央そのものが、われわれがほとんど知ることのない無のように、一切の存在するものの周囲を取り囲んでいるのである。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

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