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「かたち」という言葉の奥行き、あるいは多元性

「かたち」という言葉には計り知れない奥行きがある、と思う今日この頃。

「かたち」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるだろう?

何か具体的な「モノ」を思い浮かべて、その輪郭を「かたち」として捉えるかもしれない。

その「モノ」は「目に見える」何かを指しているかもしれない。

では、「目に見えない」モノの「かたち」はどうだろう?

たとえば「音」は何かの方法で可視化しなければ「目に見えないモノ」と扱って差し支えないと思われる。

輪郭という言葉を手掛かりにしてみると、音の輪郭はどのように捉えることができるだろうか。

音が聞こえ始めて、聞こえなくなるまで。音の輪郭は「音の持続」によって見えてくる。

それだけではない。音の質感。

たとえば、「透明感のある艶やかな音」であったり、「ザラザラとした乾いた音」など、音の持続による点・線・面だけでなく、その点・線・面に触れた時の質感もまた、輪郭を構成している。

そのように考えると、音の「かたち」あるいは「輪郭」は「質感」をも含む非常に多元的であるように感じられてくる。

さらに、味の「かたち」はどうだろうか。

音のかたちを手掛かりにすると、味のかたちも極めて多元的である。味には香りも含まれていて、口に含んだ瞬間に感じられる味から、その持続、余韻までをもって味の「かたち」である。

いくつかを例示してみたけれど、万物を「かたち」という一つの言葉で包み込むことができるのではないか、と思えてくる。

次に、彼(ヤージュニャヴァルクヤ)にジャーラットカーラヴァ=アールタバーガが訊ねた。「ヤージュニャヴァルクヤよ、捕捉するもの(感官)はいくつあり、捕捉されるもの(感官の対象)はいくつあるのか」と、彼が語った。
ヤ「捕捉するものは八つ、その対象も八つである」と。
ジ「捕捉するもの八つ、その対象は八つとは、それらはなになになのか」と。

岩本 裕 編訳『ウパニシャッド』

気息は実に捕捉するものである。捕捉される対象の匂いによって認識されている。気息によって、人は諸々の匂いを嗅ぐからである。言語は実に捕捉するものである。捕捉される対象の名によって認識されている。言語によって、人は諸々の名を現わすからである。舌は実に捕捉するものである。捕捉される対象の味によって認識されている。舌によって、人は諸々の味を識別するからである。眼は実に捕捉するものである。捕捉される対象の形によって認識されている。眼によって人は種々の形を視るからである。

岩本 裕 編訳『ウパニシャッド』

耳は実に捕捉するものである。捕捉される対象の音によって認識されている。耳によって人は諸々の音を聞くからである。意は実に捕捉するものである。捕捉される対象の欲望によって認識されている。意によって、人は諸々の欲望をおこすからである。両手は実に捕捉するものである。捕捉される対象の行為によって、認識されている。両手によって、人は行為をするからである。皮膚は実に捕捉するものである。捕捉される対象の触感によって、それは認識されている。皮膚によって、人は種々の食感を感じとるからである。

岩本 裕 編訳『ウパニシャッド』

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