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身近にある「対称性」と「非対称性」の調和。

「対称性」が内在している物事に出会うと、心なしか穏やかな気持ちになるように思います。身近にあふれる対称性。

まずはわかりやすいところから。図形的、幾何的な対称性として左右対称、上下対称、回転対称。

日常を彩る食器を思い浮かべてみると、丸いお皿、四角お皿、あるいは楕円形のお皿。形が上下や左右で対称的だと、どこか収まりがよいというのか、落ち着きがあるというか、整うというか。

湯呑みとマグカップ。湯呑みは持ち手がついておらず、全体として対称的なものが多い。一方、マグカップは持ち手があり、持ち手のある側とない側で非対称です(上から眺めて持ち手を軸とすると左右対称なのですが)。この対称性を破る持ち手には、どこか「遊び心」を感じます。湯呑みは持ち手がない代わりに「高台」と呼ばれる出っ張り部分があり、熱さが和らぎます。

対称性の範囲を空間的、時間的に広げてみます。

たとえば移動を考えてみると、「片道」は非対称であり「往復」は対称的と言えるのではないでしょうか。もちろん、全く違う道程で元の場所に戻ってくる場合は往復も非対称では、との見方もできます。

もう少し抽象化してみると、移動回数の奇数(片道)と偶数(往復)がそれぞれ非対称、対称に対応している感覚があるのかもしれません。(偶数性が内在している意味で)対称的な物事は、どこかで割りきれる。

人の身体は外側から見ればほぼ左右対称であるように見えるけれど、内側の臓器の配置などは多くが非対称。対称性と非対称性がなめらかに美しく調和しているのが人という存在。

いや、人だけではないのでしょうね。あらゆる関係性も対称性と非対称性が内在している。「多様性」への意識が高まる今日この頃ですが、そこには必ずしも協調ばかりではなく、衝突も生じます。重要なのは「多様性をいかに包摂していくか?」という問いです。

こうした「社会的な包摂」を実現する鍵になるのが、「対称性と非対称性の調和」にあるような気がします。

「対称的である」ということに於いて在る。「非対称的である」ということに於いて在る。異なるよう感じる存在を「事(コト)」を通して束ねてゆく「術語的統一」という考え方の可能性を感じるのでした。

さて、原始線条と原始結節のシステムによって体の頭尾軸ができ、最初の組織層もできたが、このシステムはそれだけでは満足せず、もう一つ大事なことをやってのける。放射相称が破られたあとも維持されていた胚の左右対称を、ここで破るのである。どうやって破るかというと、これが非効率なようで実は効率的な方法で、体液の流れを利用する。(中略)第二に、この線毛は「鞭打つ」というより、カウボーイが投げ縄を回すときのように円を描いて動く。旋回は速く、一分間におよそ六〇〇回転で(自動車のアイドリング時のエンジン回転数に近い)、回転方向は常に時計回り(細胞を下から見上げたとき)である。

『人体はこうしてつくられる―ひとつの細胞から始まったわたしたち』

胚が完全な左右対称でなくなることは、体を作るためには有益である。わたしたちの体は外から見るかぎりほぼ左右対称だが、内部構造は非対称になっている。循環器系は左右非対称で、脾臓と膵臓は左寄り、肝臓と盲腸は右寄りにあり、脳にも左右に微妙な違いが多々ある。

『人体はこうしてつくられる―ひとつの細胞から始まったわたしたち』

左右対称の破れのメカニズムで注目すべき点は、線毛を動かすモータータンパク質の分子レベルの非対称から、胚全体の大規模な非対称が生じることであえる。分子の特性がここまでダイレクトに体全体の特性に置き換えられる例は珍しい。このメカニズムは一風変わっているが、すでに数多くの証拠によって裏づけられている。

『人体はこうしてつくられる―ひとつの細胞から始まったわたしたち』


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