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物に愛着が湧くのはなぜだろう?

今日から、「フロー」という概念を提唱し、幸福や創造性の研究で知られる心理学者であるミハイ=チクセントミハイ氏による『モノの意味 - 大切な物の心理学』という本を読み進めたいと思います。

昨日まで小坂井敏晶(社会心理学者)による『責任という虚構』という本を読みながら「責任概念」について考えていました。その中で「自分と出来事の距離を近づける心の作用」が責任概念と深く結びついていると感じました。

何かを・誰かが大切に思えてくる。何かが・誰かが自分にとってかけがえのない存在になってゆく。人は自分を取り巻くモノや環境に対してどのように意味付けをしたり、価値を感じたり、関係を構築していくのか。

本書を読み進めながら、そのような問いを深めていければと思っています。
ではまず本書冒頭から執筆の動機、骨子に関して、一部を引用してみます。

一人ひとりの、過去の思い出や現在の体験、将来の夢さえも、その人の環境を構成するさまざまな物と分かちがたく結びついている。(中略)以下に続く本書の研究は、今日の都市に住むアメリカ人が、自分の身の回りに存在する物とどのようにかかわっているかということと、その理由は何かを理解しようとする試みである。われわれは、自分とは何か、自分とは何だったのか、自分は何になりたいのかという自己定義において物が果たす役割を検討したいと考えている。物にはこのような重要性があるにもかかわらず、人が物に愛着を感じる理由や物が人びとの日々の経験や目標に組み込まれていく過程は、ほとんど解明されていない。
これらの作業過程は五年後にようやく完了したが、それはその計画が頓挫したからではなく、アイデアをまとめるためだった。これらのアイデアの中で、もっとも中心的なものはおそらく≪涵養≫(cultivation)という概念である。この概念はプラグマティズム哲学を文化理論に適用したものとして、ロックバーグ=ハルトン(Rochberg-Halton, 1979 a, b)によって精緻化された。そこでは、意味がどのようにして目標に向けられた能動的解釈過程となるかが強調されている。
本研究に照らし合わせると、この概念は、人びとが相互作用の対象から引き出す意味の広がりを明らかにしてくれる。文化的に受容された同一の対象が、ある人には束の間の快適さしか与えないのに、他の人には本人以外の人物や他の概念と結びついた複雑な情動的および認知的つながりを意味する。このようにわれわれは、物の潜在的意味が意味世界の能動的涵養過程の中で形成され、それは当人の根本的な人生目標を反映するとともに、その創出をも促すという結論に達した。

「このようにわれわれは、物の潜在的意味が意味世界の能動的涵養過程の中で形成され、それは当人の根本的な人生目標を反映するとともに、その創出をも促すという結論に達した。」

本書の結論が述べられていますが、特に「涵養(Cultivation)」という言葉が印象に残りました。

「涵養とは何か?」という問いに対して「そこでは、意味がどのようにして目標に向けられた能動的解釈過程となるかが強調されている」と著者は述べています。目標は"いわゆる"モノであると推察されますが「能動的に解釈をすること」が涵養の肝であるようです。

著者は「物にはこのような重要性があるにもかかわらず、人が物に愛着を感じる理由や物が人びとの日々の経験や目標に組み込まれていく過程は、ほとんど解明されていない。」と、本書執筆のもとになる研究の動機を示しています。

自分にとって大事な物を思い浮かべたとき、どのようにしてその物との間に「つながり」が生まれる、あるいは愛着が湧いてきたか。どんなことが思い浮かぶでしょうか。

長く使い続けている中で、あるいは普段からよく目にする中で、表情の変化に気づく。所々でほころびが出てきたら手入れをする。汚れてきたら磨きをかける。

そうした時間や関わりを積み重ねる中で自然と愛着が湧いている気がします。「物の持ち味を固定化させない(劣化させない?)」あるいは第一印象だけではなく、その物との関わる時間・観察を通して新しい側面を引き出すとも言えるかもしれません。

「自分とは何か、自分とは何だったのか、自分は何になりたいのかという自己定義において物が果たす役割を検討したい」と著者は述べています。

「自分とは何か、自分とは何だったのか、自分は何になりたいのか」と漠然と考えるのではなくて、物との関わり方を通して浮かび上がってくる自分の内面を拾い集めていく。周囲との関係の中で自己を定義する(見いだす)。

本書を読みながら「涵養するとは具体的にどういうことか?」「自分は何を大切にしているのか?」という問いと向き合っていきたいと思います。

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