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豊かさとはなんだろう?

今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「飽和した世界に向けて」を読みました。

昨日読んだ内容を少し振り返ると、「日本の感受性とは何だろう?」という話にふれました。著者は海外から帰国して成田空港に降り立つと、床が隅々まで丁寧に掃除されていたり、床のタイルがピカピカに磨き上げられていることなどに心を打たれるのだそうです。

掃除する人、料理をする人、工事する人など。様々な営みから感じ取ることができるのは繊細・丁寧・緻密・簡潔。こうした価値観が日本という国に通底していることが日常にうめこまれている。そして、それは気付いていないかもしれないけれど、自然と感性が育まれる土壌が日本には存在している。そのことを学びました。

さて、今回読んだ範囲では「物・生活・文化」というテーマが展開されていました。

モノと流れ

著者は「生産物がいかなる文化を育むか?」という視点について述べています。

日本は多くの工業製品を世界に輸出する工業国であるが、その生産物がいかなる文化を育むかという視点でものを考え、表現することが少ない。文化は美術・芸術のみに根ざすものではなく、生み出される製品からどんな暮らしや営みが芽生え、またそれがどのような生活環境を育んでいくかを見定めて提示していくことが、世界の未来に影響を持つ。

無性に「何かを作ってみたい」という衝動に駆られるときがあります。実際に作ることができるかは別として衝動が湧き上がってくる。自分で完結するならば物の感性を目標としてもよいのかもしれません。

しかし、いざその物が誰かの目に止まって、誰かとの縁がつながって日常の中で使われるとしたら、その物は誰かの生活の一部になる。生活は流れであり留まることのないプロセスの連続だと思います。身体の流れであり、思考の流れであり、時間の流れであり。

そう考えると「物をプロセスとして捉える」という視点があってもよいのかもしれません。物をきっかけとして自分の生活のリズムが誰かに伝わっていく、あるいは誰かの生活のリズムが自分に伝わっていく。そうして生まれる「人と人の流れの同期」をを文化と呼ぶのではないか。そんなことを思いました。

豊かさとはなんだろう?

著者は「人がいかに豊かに暮らしてゆくか」というイマジネーションの重要性を説きます。

これからの世界は単にマネーの力ではなく、文化をともなった影響力のせめぎ合いになる。ものづくりの総量やGDPの大きさだけでは影響力を持ち得ない。日本は、経済はもとより、人がいかに豊かに暮らしてゆくかというイマジネーションにおいても相応の存在感を示す意欲と責任を持たなくてはならず、そのためにはまず、自分たちの作り出すものの文化的な意味についての多角的な考察やヴィジョンが不可欠になる。

「経済が成長する」「経済を成長させる」

こうした言葉を耳にしない日はないと思いますが、「ものづくりの総量やGDPの大きさだけでは影響力を持ち得ない」という著者の言葉は、「数量に還元できない質の重要性に意識を向けよう」と説いていると感じました。

「人がいかに豊かに暮らしてゆくかというイマジネーション」という言葉が出てきましたが、「豊かさとは何か?」という問いも長らく考え続けられている問いの一つではないでしょうか。

豊かさは唯一絶対的な豊かさというものは存在せず、人それぞれの文脈の上にそれぞれの豊かさがあるはずです。物質的な充足が満たされてきた世界において、豪華や贅沢だけが豊かではない。例えば、粗食であっても、自分がホッとする味わい、身体が整う食事というのはこの上なく贅沢だと感じる。自分のために心を込めてくれたのならより一層そう思います。

だから、豊かさとは「自分が何かを豊かだと感じる感性」そのものではないだろうか。そんなことを思いました。

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