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「空」=もしそれがなかったら?

今日も引き続き『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第2章 日本の経済文化の本来と将来3. 編集的日本像」から「モノの日本・コトの日本」を読みました。それでは一部を引用します。

 いまの社会では、ちょっとでも同質性から逸脱するだけで、ほんのちょっと異質なものに手を出すだけで、犯罪になったりするわけですが、いまご覧いただいた新野の雪祭りのようなものは、むしろ異質なものとつながるためにずっとやり続けているわけです。青森のねぶた祭りなどは三〇年ぐらい前だと死者が出てもおかしくないほどの熱気のあるものでしたし、各地の祭りでも横町ごとにヤッパを懐に忍ばせた人たちがいたものです。いまはそういうことがあるとたいへんな問題になりますね。(中略)こういうフラット化した社会、クリーン化しすぎた社会では、日本の文化の底流にあるものがますます取り出しにくくなっていると思います。
 「空」は、何もないという意味ではなく、もしそれがなかったらというふうに仮説することです。認知科学的な専門用語で言いますと「アブダクション」と言います。この仮説形成をするために何かを封じるのが「空じる」ということです。また、そういうことができる人のことを「菩薩」と名付けました。正確には「ボーディ・サットヴァ」(菩薩薩埵)と言います。
 いまの私たちはあまりにも進歩思想に染まりすぎていて、しかもものすごいドッグレースの中に巻き込まれています。より便利なもの、より儲かるもの、よりリターンがいいものをどんどん求めていく。菩薩がもっているような、あえてそこにとどまるといった方法も、「空」や「縁」も、この新野の雪祭りが奥に秘めているものも、どんどん見えなくなってしまっています。

「いまの私たちはあまりにも進歩思想に染まりすぎていて、しかもものすごいドッグレースの中に巻き込まれています。より便利なもの、より儲かるもの、よりリターンがいいものをどんどん求めていく。」という著者の言葉。

あらためて「より便利なもの、より儲かるもの、よりリターンがいいもの」を求め続けるのはなぜだろう、と思いながら「空」という概念に関する著者の説明を何度も読み返しました。

「空」という言葉は「何もない」ではなくて「もしそれがなかったら」との仮説を表す言葉。

現に実在する何かについて「もしそれがなかったら」と考えることもできるし、まだ実在しなくとも将来現れるかもしれない何かについて「もしそれがなかったら」と考えることもできる。

各地の祭り事は「異質なものとのつながり」を通して、非日常に入り込んでゆく。逸脱してゆく。毎年繰り返し逸脱する。留まりながらも未知の領域と接し続ける。この文脈において、逸脱は進歩を意味せず、円環的なゆらぎのように思える。

「クリーン化しすぎた社会」という言葉が用いられているけれど、そこには「雑」を取り除き、過度な同質化・同調圧力の存在を見いだすことができる。「雑」という言葉は「雑味・複雑・雑多・雑巾」など、奥行きや多様性を表す意味がある。

たとえば、雑菌という言葉は「色々な菌」という意味であって、それが人の健康を害す場合において「邪な」という意味合いが付加されるだけであって元々の雑には「邪」の意味は含まれていない。

話は横道にそれたけれど、進歩とは異なる「逸脱」の可能性に目を向けたい。横道にそれる、脇道に入るのは楽しい。

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