コミュニケーション能力と人格を分けて考える
今日は『わかりあえないことから- コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ)より第6章:コンテクストの「ずれ」から「コミュニケーション教育、人格教育ではない」を読みました。
本節の主題は「コミュニケーション教育」です。
「コミュニケーションを能力を育む」とはどのようなことなのでしょうか。
昨日は「多数派=優、少数派=劣ではない」ことを再認識しました。具体的には次のようなことです。
・国際社会において、ハイコンテキストなコミュニケーションをとる日本は少数派にあること
・国際社会における多数派のコミュニケーションを身につけることは、世界とコミュニケーションをとる上で損はないこと
・多数派のコミュニケーションを学ぶのは作法としてであり、同化する必要はないこと
では、コミュニケーション能力を育む上でどのようなことに気をつける必要があるのでしょうか。
言葉が変われば世界の認識も変わる
生活環境・社会が異なれば、コミュニケーションにおける意味も変わる。アメリカなどの多民族国家では「初対面の人に話しかける」人の割合が五割を超えるとされ、そこには「相手に対して悪意がない」ことを表明する意味があるのでした。
コミュニケーションにおける意味の違いは、言葉の違いによる面もあります。そして、言葉は関係性の中で作られ磨かれてゆくのでした。言葉は自分が置かれた環境、文脈の中で何かを伝える必要があるから作られます。
著者はイヌイットが用いる言葉と日本語における色彩表現の違いについて、次のように述べています。
イヌイットは、雪を描写する言葉を数十も持っていると言われる。一方、私たちの日本語は、色彩に関する表現では、世界有数の語彙を有すると言われる。白一色のイヌイットの世界では、色彩の語彙は少ない。それぞれの言葉には、歴史性があり文化がある。色彩の語彙が少ないイヌイットが、人間として何かが劣っているわけではない。おそらく日本語はイヌイットよりは雪の描写の語彙は少ないだろうが、それで我々日本人が何かに劣っているわけでもないし、生活に不便もない。
イヌイットは雪の描写を表現する言葉を数十も使い分けるそうです。微妙な雪の状態の差異を捉えることは極寒の環境下で生活してゆく上で必要不可欠なのでしょう。
文化が異なればコミュニケーションの方法、語彙にも自然と差異が生まれるのであって、優劣をつけるものではない。むしろ、言語間の語彙の違いは、見えている景色の違い、解像度の違いとして現れるのではないかと思うと、「言葉は世界の認知の仕方に強く作用している」のだと感じました。
コミュニケーション能力と人格を分けて考える
コミュニケーション教育にについて、著者は次のように警鐘を鳴らします。
繰り返し言う。コミュニケーション教育は、人格教育ではない。
コミュニケーション教育は、人格教育ではない。そう言われてみるとそうなのかもしれませんが、無意識のうちに混同してしまっている場合、あるかもしれません。
たとえば、雄弁だからといって素晴らしい人格の持ち主だとは限らず、逆もまた然り。「コミュニケーション能力と人格を分けて考える」ことは他者と関わりを持つ上で重要な観点だと思います。
言葉は少々キツイかもしれないけれど、あるいは巧みな表現ができないからといって、感覚的に人格を否定するようなことがあってはならない。「どのように」よりも「何を」考えて伝えようとしているか。無意識のうちに相手を決めつけようとしている自分に気づくためには、相手に関する問いを立てることが大事なように思います。
著者はナイフとフォークの使い方を例にあげて、上記の主張を補足します。
私たちは、西洋料理を食べるためにナイフとフォークの使い方を学ぶ。しかし、ナイフとフォークがうまく使えるようになったところで人格が高まるわけではない。人格の高潔な人間が、必ずナイフとフォークがうまく使えるわけでもない。マナーと人格は関係ない。丁寧とか、人に気を使えるとか、多少の相関性はあるのだろうが、現実世界では、とても性格は悪いけれどナイフとフォークの使い方だけはうまい奴などざらにいるし、またその逆もあるだろう。
マナーと人格は関係ない。とてもシンプルなメッセージです。
この言葉に出会う前と出会った後。上手く言えないのですが、自分の中で何かがはがれ落ちたような感覚を覚えました。