「流れに乗る」のか、それとも「流れを成す」のか〜川の流れをかたち作る水の粒子の気持ちを想像してみることから〜
「流れに乗るとは?」
時に、物事がなめらかに進んでいる状態を「流れに乗る」と表現しますが、本当に「乗っている」のだろうか、と思うことがあります。
「もし自分が、川の流れをかたち作る水の粒子の一つになったとしたら、どのような気持ちになるのだろう?」と想像してみます。
水は「極性」、つまり部分的にプラスの電気とマイナスの電気をもった分子(双極分子)であり、分子と分子の間に引力(分子間力)が働いています。
つまり、水は互いに引き合う力を「自然に(生まれながら)」持っており、文字どおり「自然と」集まり、そして重力(地球との間に働く万有引力)に導かれて流れを成してゆく。
そう考えてみると、「流れに乗る」というよりも、「流れを成す」あるいは「流れと一つになる」という感覚のほうが近しいように思えてくるのです。
そして、その元を辿ると、そこにあるのは「差異」です。
電気的な意味での差異(極性)や、水と地球の比較での「質量」の差異。
「差異」があるところには、引き合う力(と、互いに離れ合う力:斥力)があり、それらの力が見事に重なり合い続けて「調和」が保たれる。
人にもそれぞれ「極」あるいは「偏り(凸凹)」がある、と思うわけです。
あらゆる側面が均一、均等な人など存在せず、何かしらの極、偏りがある。
極を持つがゆえに、人は互いに引き合う(時に、斥けあう自由もある)からこそ人の世は調和し、そして、そのような時代においては「時代の流れに乗る」というよりも「時代の流れと一つになっている」感覚なのかもしれません。