無意識、素直さ、そして自分。
身体を動かしている。誰かと話をしている。本を読んでいる。食事をしている。旅を楽しんでいる。音楽を聴いている。電車に乗っている。青空を眺めている。
毎日の生活は「何かをしている」の連なりであるわけですが、そこには自分の存在を意識するとき、意識していないときの二つのモードがあるように思います。
たとえば、道を歩いているとき。自然の風景の一つひとつを胸にしまってゆくように、自分の心のうちに丁寧に染み込ませてゆくように歩を進めていると、自分の存在に対する意識は薄れ、自然と自分の外側へと流れ出てゆく。
外を走っていると、走っているリズムに次第に落ち着きを取り戻してゆき、走っていることを意識しなくなってゆく。いまの時期でいえば、桜が立派に咲き、風に舞い散る様子を眺めていると、気づけば時間を忘れている。
「意識を手放そう」と"意識する"ほど、意識にとらわれてゆくような感覚が立ち上がってくることもありますが、そのような時に意識される自分よりも何かに夢中になっていて「意識されない」自分こそ、本来の自分なのかもしれないと思うわけです。
「文章を書こう」と思うと言葉が出てこなくなってしまう。上手に書こうとしなくても、ただただ降りてくるままに言葉を書き留める。脈略がなくても話が飛んでいても、素直に降りてきた言葉を大切にしたいと思うわけです。
何かを取り入れよう、取り入れようとするよりも、むしろ何も入れずに空っぽになってゆくほうが、素直さがにじみ出てくるような気がします。
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