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「世界で機能する主体性を持つ」ということ

今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「鶏口牛後のクリエイション」を読みました。

昨日読んだ内容を少し振り返ると「ファッションとは何か?」というテーマに触れました。ファッションという言葉からは自然と衣服を連想しますが、衣服を意味するならば衣服でよいわけですから、ファッションという言葉にはさらなる奥行きがあるはずです。

ファッション(fashion)を辞書で引いてみると、Something that is popular or thought to be good at a particular time.(時流に乗っている、あるいは良いと思われるもの)と定義されています。時流からは「流行やトレンド」が、良いからは生活感や価値観を含んだ「ライフスタイル」という意味が想像されます。

衣服は最初から衣服として存在しているわけではありません。糸が織り上げられ、布地となり、縫製などの加工、流通を経て手元に届く。川の流れのように、糸の流れがある。ひるがえって、自分が手にしているモノはどのように作られてきたのだろうか。そのことを知ることはほとんどありません。

つまり、どこかで割り切って選択しているわけですが、本当にそれでよいのだろうか。自分と出会うプロセスまで含めて選択するべきではないなのだろうか。そのような問いが浮かんできたのでした。

さて、今日読んだ範囲では「主体性と感受性」というテーマが展開されていましたので、印象的だったことを広げていきたいと思います。

「世界で機能する主体性を持つ」ということ

著者は「世界で機能する主体性を持つ」を意識していると言います。一体どのようなことなのでしょうか。

世界から評価されるのではなく、世界で機能するという主体性を持つ。これはしばらく意識続けていることのひとつである。評価される、という受動性には、何か大きな力や文化に依存している甘えがある。「むしろ鶏口となる牛後となるなかれ」とは中国の史記に出てくる言葉だが、大きな組織のしっぽになるより小さな組織でもその頭になった方がいい、というような意味だ。(中略)勿論、謙虚に学ぶことは大切だ。しかし鶏の頭のように、小さくても果敢にくちばしを前に出した方がいい場合もある。

「評価される、という受動性には、何か大きな力や文化に依存している甘えがある」という著者の言葉が印象的です。評価されたいと思うことありますよね。人は誰かとのつながりの中で生きている。人とつながる中では何かを分け与えたり、交換するという営みが欠かせません。

相手は自分にとってどのような人だろうか。自分は相手からどのように見られているのだろうか。そう思う気持ちもある一方、相手の評価を気にせず、しかしつながっていられる関係があったら、どこか楽になるかもしれない。

著者の言葉は「誰からも評価されなくてもいい。自分の直感にしたがって進み続ければいい」とも取れるように思うのでした。それが「世界で機能する主体性」ということなのではないかと。

そして、そういうメッセージを出し続けるたびに、その根底に日本を意識してきたように思う。もう少し広げて言うなら、アジアを意識していたというべきか。繊細、丁寧、緻密、簡潔という言葉で、僕は日本の感受性を語ってきたように思うが、合理性だけではなく肌合いや感触を重視するのがアジアであり、自然と人工を対立するものと考えない、ゆったりと鷹揚に世界を捉えていく感性がアジアにはある。

「合理性だけではなく肌合いや感触を重視する」
「自然と人工を対立するものと考えない」

「こうした感覚を育んでいきたいな」と思いました。合理性は「理にかなう」というわけですが、物事を細分化し、分解した小さな事柄を調べ尽くしてつなぎあわせれば全体を理解したことになると考えることだけが論理ではないはずです。

「分けて考えない」ということもまた「理」ではないでしょうか。全体を全体のまま捉えてゆく感性を磨いてゆきたいです。

「モノ」のデザインから「こと」のデザインへ。

著者は繊維の可能性に触れるため、いくつかの人造繊維を紹介しています。そのうちの一つを引用します。

ユニチカの「テラマック」はトウモロコシなどから作られる高分子素材で、これはプラスチックのようなかたまりとしても、シート状にしても用いることができるが、ノズルから細いフィラメントとして射出し、それを特別な製編技術で編み上げることで立体ファブリックとして用いることができるという素材である。原材料が植物なので生分解性が高い。つまり地面に置いておくと自然と土に還る。

原材料が植物性なので自然と土に還る(生分解される)。環境意識の高まりから廃棄物削減などが求められていますが、日本の江戸時代は自然と人間が調和していました。排泄物は田畑に還元され、再び農作物としてよみがえり人のもとに届いていた。

もとから日本には自然との共生・調和という価値観・生き方が根づいていたわけで、今こそ形を変えて戻ってくる時ではないのだろうか。江戸時代の循環型社会の成り立ち、仕組みについてさらに学びたいと思います。

解説を始めるときりがないが、これらの繊維はもはや普通の「布」ではない。これらを用いて何が生み出せるか。用途が決められてからその形を考えるのではなく、そこに潜在する可能性を可視化するのもデザインの重要な仕事だ。

「モノ」のデザインから「こと」のデザインへ。グラフィックデザイナーである著者は「こと」のデザインに関わってきたと言います。

「用途が決められてからその形を考えるのではなく、そこに潜在する可能性を可視化する」という著者の言葉から、素材(媒質)に「触れて・感じて・考える」という営みを通して、自分の内側から湧き上がるインスピレーションを形にしていくことの重要性を学びました。

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