レンマ的知性としての「直観」、そして身体性。
理性は「ロゴス的知性」と「レンマ的知性」の2つから成ると考えられていて、特に後者は「事物をまるごと把握する」という知性のあり方を指しています。この「レンマ的知性」の輪郭をつかみたいと思い、自分の日常を足場として思索を重ねる今日この頃です。
「概念」の定義が言葉でなされるのだとしたら、輪郭をつかむためには、色々な言葉、表現にふれてみることも大切だと考えています。語り手によって使われる言葉、語り方は異なり、様々な語られ方がある。言い換えると、言葉と言葉の間には可能性、余白が存在します。
ある語り手の言葉と言葉の隙間を別の語り手の言葉が埋めてゆく、あるいは概念の別の相・層が見えてくることがあります。以前読んでいた岡潔さん(数学者)の『春宵十話』にも直観の話が書かれていて、「レンマ的知性」を別の角度から眺める機会を与えてくれます。
後で言葉を引用していますが、直観には三種類あり、その根幹にあるのは「実在感・真善美・無意識」とのこと。あらためて読み直してみると、この組み合わせは「身体性」によって統合されるのではないかと直感しました。
ヨガに取り組んでいるとき、まさにこの三つが自分の身体を通して統合されてゆく感覚があるからです。
呼吸に意識を向けて身体のバランスを取ってゆく。そのゆらぎの中に実在感が立ち現れます。
身体が「微動だにしない」ということはなく、ある幅のゆらぎの中で均衡を保ち続けているのですが、「ゆらぎ」の中に自分という存在を感じます。
そして、調和、均衡を保つ過程には「真善美」が内在していて、均衡を取ろうと意識を向ける、意識が表に出ると逆にバランスが崩れてしまうのです。
また、呼吸に集中しながら適度にリラックスしてゆくと、自然と意識が全身にフワーッと広がり分散してゆく。その中で意識の存在は薄れてゆきます。
と、あらためて振り返ってみると、レンマ的知性としての直観は「身体性」に大いに下支えられているのだと思えてきます。