雨がしとしと降っている日の歩道が好きだ(アフォーダンス。環境は意味の海)
しとしと雨が降っている時の道が好きだ。
今日はそんな話をしてみたい。
しとしと雨が降っていると、雨が道のくぼみにたまっている場所もあれば、水がたまっていない場所もあることに気づく。
これは「道の凹凸」がくっきりと姿を表していることに他ならない。
そんな時の歩き方は晴れた日とはまったく違う。
足元がなるべく濡れないよう、水がたまっていない表面が「ツルッ」とした箇所を見つけては足場にしながら、ちょっとしたゲームを楽しむように歩みを進めていく。
ふと「道から能動的に意味を見出しているのかもしれない」と思った。
生態学者のM・ギブソンが提唱した「アフォーダンス」という概念があり、この概念が何を表しているのか文字だけでは捉えきれていなかったのだけれど、雨の道を歩くことを通してアフォーダンスという概念を「体取・直趣」した気がする。
この体取・直趣という言葉は、日本を代表する数学者の一人である岡潔さんの言葉。事前知識や固定観念、先入観を取り払って、その物事のありのままを直覚的に捉える営みのこと。
そもそも「"ありのまま"とは何だろう?」という問いは一旦横に置いておくとして、「物事を分かる範囲まで要素に細分化して一つ一つを理解し、その理解を積み上げて全体を理解したことにする」とは真逆の捉え方が、体取・直趣だと思う。そもそも「分かる」という言葉の語源は「分かつ(分ける)」だから、体取・直趣は「分かる」とは異なる捉え方であるはず。
さて、前置きが長くなったけれど「アフォーダンス」という概念について、『アフォーダンス入門 知性はどこで生まれるか』(著:佐々木正人)からいくつか言葉を引いてみたい。
晴れていて道が乾いている時は「その道が平らかどうか」なんて気にとめることなく歩いている。これは無意識に「歩ける場所」つまり「地面が自分を支えてくれる」という意味を見出し、その意味が「正しい」と信じて歩いているということ。
雨が降ると道の凹凸が水に対する光の反射として浮かび上がってくるのだけれど、それは言い換えれば「道の肌理」のようなもの。
水がたまっているのか否か。道の状態を探りながら歩みを進めている時は、自ら主体的に環境から意味を引き出そうとしている。いや、道の凹凸、それ自身が私に語りかけてきていると言うべきなのだろうか。
先日読んでいた「From a homeostatic to a homeodynamic self」という論文で次のように述べられていた。まさに「知覚は進行中の探索プロセスと同等(Perception is equivalent to an ongoing exploratory process.)」なのだと実感した、しとしと雨の昼下がり。環境は意味の海。恵み、気付きの雨。