見出し画像

「阿弥」とは何か?

今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「阿弥衆とデザイン」を読みました。

昨日読んだ内容を少し振り返ると「何もないことの豊かさ」というテーマに触れました。何もないことが豊かであるとはどういうことなのか?例としてあげられていたのは「茶室・裸の王様・生け花・庭」でした。

茶の湯を楽しむため、茶室のしつらいは最小限とされています。簡素な空間とすることでイメージを含まらせることができる。水盤に水を張って桜の花びらを浮かべることで、あたかも満開の桜の木の下に座っているかのような情景を思い浮かべる。

何もないとは「余白が豊富にある」と解釈することができる。エンプティネス(空っぽ)であることは豊かである。つねに何かで自分を満たそうとするのではなくて、むしろ空っぽにすることで自分の内側から湧き上がってくる何かを捉える感性を育みたい。そのように思ったのでした。

さて、今回読んだ範囲では「阿弥衆」というテーマが展開されていました。

「阿弥」とは何か?

観阿弥、世阿弥、立阿弥、善阿弥…。一度は聞いたことがあるかもしれない名前だと思いますが、この「阿弥」とは一体何を表すのでしょうか?

 阿弥とは、やや乱暴にたとえるなら、優れた技能や目利きの名称に付す「拡張子」のようなものだ。最近は、そのデータがどのソフトウェアでできたかを表記する目的でデータの名称の最後に「.doc」などと付す。意味や機能は異なるが、ニュアンスとしてはこれに似ている気がする。だから室町以降の人の名前に「阿弥」と付されていたなら、「.ami」、なるほどその筋のソフトウエアを共有するアーティストか、と考えればだいたい遠からずの素性を理解できる。

技能や目利きの名称に対する「拡張子」と表現されています。拡張子とは、電子ファイルの種類を識別するものですから、「阿弥」とは技能や目利きの種類を識別するものと捉えることができそうです。何かの分野・領域に秀でている人の総称とも言えるのかもしれません。

阿弥衆といえば、能の観阿弥と世阿弥、立花では立阿弥、美術品の目利きであった能阿弥などの名前がすぐにあがってくる。東山文化を確立した足利義政が重用した作庭師は善阿弥であるが、その出自はきわめて低い階層であったと言われている。

善阿弥の事例では、出自と関係なく純粋に「技能」を評価されて重用された事実が紹介されています。作庭も一つの美の表れだとすれば「美」の表現力を高い次元で持ち合わせる人は稀有だったのでしょう。

センスに委ねる

図面によって指図するのではなく、センスによって飾る。阿弥衆(阿弥の集まり)と美のディレクターである足利義政のコラボレーションについて紹介されていました。

庭を造るにしろ、花を立てるにしろ、義政がスケッチや図面を描いて何かを指し示すわけでは勿論ない。阿弥衆が、石を配し、山を築き、樹や植物を植えたのだ。あるいは花を立て、茶を点て、渡来の唐物の良し悪しを検分し、座敷をセンスよく飾ったのである。前節で述べた「エンプティネス」つまり「冷え」や「空白」を巧みに運用して人間の興味や関心を誘導・歓喜する表現技術がこの時代から切れ味よく動きはじめている。まさにこの時代に始まる日本独自の美の実践者が阿弥衆なのである。

豊かな感性・技能を持つ人間同士が互いのセンスにもとづいて表現しあう。創作してゆく。世の中には様々な形のコラボレーションが存在するわけですが、互いの信頼のもと「コンセプト」という空間の中で自由に表現しあうというスタイルには惹かれるものがあります。

ふと、人は自由と不自由、委ねる・委ねないのバランスを取り続けているのかもしれない、と思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?