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エンプティネス。「何もないこと」の豊かさ。
今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「なにもないことの豊かさ」を読みました。
昨日読んだ内容を少し振り返ると「シンプルとは何か?」というテーマに触れました。「シンプルってどういうこと?」と聞かれたら、どのように答えるでしょうか。なかなか一言で答えるのは難しいかもしれません。
「簡素」という言葉が当てはまるでしょうか。「地味」「派手ではない」という言葉では表現しきれない奥行きがある言葉が「簡素」だと思います。
「シンプル」は、物事が複雑になってから初めて成立した概念。物事が複雑になる前ではプリミティブ(原初的)と表現される。近代市民社会において人々が「自由」や「幸福」を求める中、近代科学の発展により合理性の追求が物の成り立ちにも及んだ。華美を避け、実用性・用の美を追求する精神性が「シンプル」ということだと理解しました。
シンプルとは、複雑なものを解きほぐして本質を抽出し、再構築していく。そのような営みなのだと思いました。
さて、今回読んだ範囲では「エンプティネス」という概念について展開されていました。エンプティネスは「シンプル」に対置されています。
「エンプティネス」という概念は、応仁の乱を経た感覚世界に誕生します。足利義政、千利休などが起点となった「エンプティネス」という概念について、いくつか著者の言葉を引いてみます。
空っぽの茶室を人の感情やイメージを盛り込むことのできる「エンプティネス」として運用し、茶を楽しむための最小限のしつらいで豊かな想像力を喚起していく。水盤に水を張り、桜の花弁をその上に散らし浮かべたしつらいを通して、亭主と客があたかも満開の桜の木の下に座っているような幻想を共有する、あるいは供される水菓子の風情に夏の情感を託し、涼を分かち合うイメージの交感などにこそ、茶の湯の醍醐味がある。そこに起動しているのはイメージの再現ではなく、むしろその抑制や不在性によって受け手に積極的なイメージの補完をうながす「見立て」の創造力である。
エンプティネスの最初の例として出てきたのは「空っぽの茶室」です。この「空っぽ」という言葉がエンプティネスに重なります。そして、大事な言葉が「見立て」だと思います。
何もないからこそ、そこに想像の余白が無限に広がっている。その想像力をかき立てる力が「エンプティネス(空)」にある。物質的に満たされた社会では、外から何かを受け取って満たされていくことが「豊かさ」であると感じやすいのかもしれません。
「エンプティネス」という概念は、自分の内側から外に広がっていく想像に「豊かさ」を感じることができる。そう思うと、時に色々な物事から離れて空っぽになる時間を作ることは希少ですし、大切だなと思うのです。
エンプティネスの頂点に立つなら「裸の王様」の寓話は逆の意味に読みかえられる。子供の目には裸に見える王に着衣を見立てていくイマジネーションこそ、茶の湯にとっての創造だからである。裸の王様は確信に満ちて「エンプティ」をまとっている。何もないからあらゆる見立てを受け入れることができるのだ。空間にぽつりと余白と緊張を生み出す「生け花」も、自然と人為の境界に人の感情を呼び入れる「庭」も同様である。これらに共通する感覚の緊張は、「空白」がイメージを誘いだし、人の意識をそこに引き入れようとする力学に由来する。
裸の王様、生け花、庭。これらの事例も人物・事物(オブジェクト)に注目すると、その周りにある充実した空間・余白があることを忘れがちになる。そんなことを教えてくれます。
「何もないこと」が豊かだと感じる感性こそ希少だと考えると、そのような感性を育むにはどうすればいいのでしょうか。それは思考ではなくて直覚的な体験を積み重ねるしかないのかもしれない。そんなことを思いました。