「人間は道具を作り、道具は人間を作る」
今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「物の社会化効果」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
何千もの事例が、物は人間存在の変化に間接的なインパクトを与えることを証明している。旧石器時代の人工物は、その道具を使用することで得られる利益を享受しうる正しい遺伝子構造と社会組織を持つ人びとの生存と再生産に有利に働くことで、≪ホモ・サピエンス≫の「選択」に役立ったと主張されてきた。
原始人の群れに、偶然であれ意図的であれ、ともかく石器や斧が新しく入ってきたとしよう。さらに、その集団内の人びとが、たとえば筋肉の協応性や知性の点で異なっていたとしよう。そうすると、もっとも筋肉の協応性がよく、もっとも知的な人たちによって、いち早くもっとも効果的に道具は使用されたであろうと推論できる。道具は使用者の生活をより楽にするため、筋肉の協応が良好あるいは知的な人間は、他の人びとより長生きし、子孫を残す機会をより確実なものとするようになる。時間の経過とともに、種族の遺伝子構造は選ばれた特性に有利に働く遺伝子の割合を増大させる方向にゆっくりと変わっていくことになるだろう。それゆえ、人間の作り出した物は人間の知性に責任を持つとも言える(Washburn, 1959; Geertz, 1973)。
ある特殊な問題に対処するために発達した技術革新は、人びとの物事の進め方や人間同士のかかわり方を変え、最終的には人びとの生活経験のありように影響を与える。近年、新しい物の続出で、私たちの生活が変化し再構成される度合いが増している。
「それゆえ、人間の作り出した物は人間の知性に責任を持つとも言える」
この言葉が印象的でした。
はたして「人間の作り出した物が人間の知性に責任を持つ」とは、どういうことでしょうか?
まず「知性とは何か?」という問いがありますが、深く立ち入らず広辞苑を引くことにします。
1. 頭脳の知的な働き。知覚をもととしてそれを認識にまで作りあげる心的機能。
2. 〔心〕広義には知的な働きの総称。狭義には感覚により得られた素材を整理・統一して認識に至る心的機能。
「知性」を「認識能力・心の働き」として捉えることにします。
本書で取り上げられている原始人の例に触れたとき、「人間は道具を作り、道具は人間を作る」という言葉が頭の中に浮かんできました。
「道具は使用者の生活をより楽にするため、筋肉の協応が良好あるいは知的な人間は、他の人びとより長生きし、子孫を残す機会をより確実なものとするようになる。」と著者が述べるように、石器や斧は、自身を上手く扱える人間に力を与え、生存確率を高める効果をもたらしたものと思います。
石器や斧は、人間がそれを用いて自然に働きかけることで、生命をつなぐ糧をもたらす一方、人を殺めたり支配する力にもなりえます。「使用者の生活をより楽にするため」に自然に働きかけるのか、それをもって(支配的に)他者に働きかけるのか。
「道具をどのように使うのか?」という目的の中に、人の心(倫理的側面とも言えるかもしれません)が映し出されます。
このように考えてみると「人間の作り出した物は人間の知性に責任を持つとも言える」という言葉には、「道具はそれを使う人間の心に働きかけ、道具が意図する方向に人を誘導する」という側面があるのだから、道具を作る人は「その道具が導く先が本当に人にとって望ましいか熟慮する必要がある」というメッセージが含まれているように思いました。
「使用者の生活をより楽にするため」という目的のもとで道具が作られるとするならば、そもそも「生活が楽になる」とはどういうことか、そもそも「生活を楽にする」とはどういうことか、から問い直さなくてはならないのかもしれません。
ある物が便利すぎて生活は楽になったかもしれないけれど、逆に不便になったこと、失われてしまったことはないでしょうか。
未だ不均衡は存在しますが、ある程度の物質的充足が満たされた時代です。これからの時代の「物」作りに必要なのは「道具が導く先の社会像であり、深い人間理解」のように思います。自戒の念を込めて...。