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「囚われない」とは、一体どういうことだろう〜意識を向けているようで向けておらず、意識を向けていないようで向けている〜
「自由自在」とは「意識を向けているを足場として、その場所から離れる」ことに近いのかもしれない。
語られていることを通して、語られていないことが見えてくる。
聴こえることを通して、聴こえないことが見えてくる。
身体の窮屈さを感じて、身体のしなやかさが見えてくる。
「囚われない」という言葉の輪郭をつかむためには、「意識を向けること」の裏返しが「囚われること」なのではないか、という問いから始めるのが良いのかもしれない。
意識を向けているようで向けていないし、向けていないようで向けている。
この矛盾しているように思える状態が真に無矛盾であるとき、「囚われない」と言えるのかもしれない。
美しさとは詮ずるに「自在心」が或る相を取ったものだと云える。長い間に私が目撃し直観した体験に根ざして言えば、美は畢竟「自在」に即する時に現れるのだと云ってよい。つまり自在心を離れては美は在り得ないのである。では「自在心」とは何か。これを「囚われぬ心」と言い改めてもよい。「囚われ」とは「執心」を指すので、私の考えでは自在心とは人間の生活が執着から解放される時に於て、始めてある心境だと説いてよいと信じる。
執心の特色は二元の世界に始終する事だと云える。吾々の想いは常に是か否かの断定に縛られてその取捨に明け暮れして了う。しかしこれは心の繋縛を意味しよう。前後に「莫妄想」という言葉があるが、吾々の心はとかく妄想の奴隷ではないであろうか。かかる執心の拘束を解く時にのみ心の「自在」があるのだと云ってよかろう。かく考えると「自在心」は、第一に私からの解放が要り、続いては分別心からの離脱が要る。これは畢竟二元界からの解脱を意味する。言葉を換えると「不二」に即する事が「自在」に即する所以になる。かくて「不二心」が「自在心」の事となろう。これを更に別の言葉に更えると「無碍心」の事になる。ここを指して仏者は「空」と云い「虚」と云った。「空」となればあらゆる二元は消えて何の碍りもない境に入って了う。これは何も無いのではなく無くなればこそ、凡てが有る事となろう。この自在からも発するものが美なのである。
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