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「勘」と「ここち」

今日で『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第1章 資本主義社会と匠たち - 社会力・経済力・文化力」を読み終えました。それでは一部を引用します。

 もうひとつ、まずいことが進行している。(中略)これはICT社会においてはビッグデータと呼ばれているものに呼応する。あまりに発達したコンピュータ・ネットワークによって、どんな情報もゴミとまじることになって、この大量のゴミの山から有効で有意的な情報を切り出すのにとんでもないコストをかける必要が出てしまったのだ。
 つまりは価値観の単位が容易に発見しにくくなったのである。「意味」を定位することに時間と費用がかかることになってしまったのだ。それが一人ひとりの想像力を奪い、価値選択力をどんどん鈍くさせていったのではないか。
 こうしたとき、実は「匠」の流儀による充実が、この途方もない「組織化された無責任」に対抗しうるものになるべきだったのである。「匠」たちは〇.一ミリの木組みを寸分たがわず組み立てられる一方、「ズレ」や「キズ」に気がつくための手法をもっている。その仕事の現場ではいつも「勘」や「ここち」を大切にする。法隆寺の棟梁として知られる西岡常一やその一番弟子の小川三夫は、この感覚を「計量に頼るだけではなくて、分量を体に入れるんだ」と言ってきた。この「分量」にあたる小さな切り口が、いま資本主義社会で稀薄になっているのだ。

「ビッグデータ」という言葉を目にしない日はないのでは?

というくらい「ビッグデータ」という言葉は社会に浸透しているように思います。人間では扱うことのできないほど無数の、大量のデータ。

その素材としてのデータに含まれるノイズを取り除き、扱いやすく加工し、有意な意味を抽出する。いわゆる深層学習(ディープラーニング)に代表されるような情報処理技術は加速度的に進歩を続けています。

もちろん、そのような技術がもつ意味や有用性は計り知れません。ですが、「人間では扱うことのできないほどに大量」なわけです。人間が人間として扱うことのできる「適切なサイズ感」、「手触り」が感じられるサイズ感の生きたデータにも同等に軸足を置いたほうがよいのかもしれません。

「その仕事の現場ではいつも「勘」や「ここち」を大切にする。」として、著者は「匠」の仕事における「勘」と「ここち」について言及しています。勘やここち、というのは主観的です。自分の価値観がそこに映し出されるとも言えるのかもしれません。

上手く言えないけれど...ここちいい。

客観であることへの要請が強まっているような気がする今日この頃ですが、一期一会、一瞬一瞬、自分の感覚を大切にすることも忘れないようにしたいものです。

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