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何かを「知っている」という不自由〜離れること、そして手放すこと〜
「自分は知っている」と思うことの脆さを感じることがあります。
たとえ「知っている」と思うことであっても、あらためて問いかけてみると、知らないことが次々と出てくる、浮かび上がってくるものです。
その時、「知っていること」に出会い直すというのか、新鮮な気持ちになります。
「無知の知(私は知らないということを知っている)」という言葉がありますが、それは「知っていること」から離れること、手放すこと、逸脱することから始まるのかもしれません。
それは、「知っていること」の不自由さを手放すことによる「自由」への入口でもあるのかもしれません。
再び原始芸術に帰ると、そこにしばしば意表を衝いた作風を見るのは、原始民が心になんの罣碍をも持たず、何ものをも怖れず自然に作り得たからである。その大きな特色は作る時の心に躊躇や逡巡がない点だと云えよう。右顧左眄などはしていないのである。美しく作ろうとか、作為を凝らすとか、そんな迷いを持つ暇もなく仕事が成されて了うのである。ここでは彼等の無知が却って美に加担して了うのである。児供達の描く絵に、しばしば素晴らしい作を見るのは、同じ原理が裏に働いているからであって、彼等がなまじ知慧を得ると、殆ど同時に描く絵がつまらなく成るのでも分るのではないか。それは分別の二元に囚われて、心に自由が失われる証拠だと云えよう。
かく美の本質が自在性であると分ると、美と創造とが如何に密に関連しているかが分る。自在であってこそ刻々の創造が為されるのである。これに反し不自由な心は凡てを固定して創造を封じて了う。かくて醜さとは不自由心の現れだと分る。マンナリズムとかアカデミックとかいう言葉が呪われるのも、それが凡て心を拘束する不自由さを示すからである。ここで何故機械生産が、とかく醜と結びつき易いかの理由が読める。機械には創造的な自由さが乏しいではないか。
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