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人間から未知の要素を除いていったらどうなるか?

今日は『創造的人間』(著:湯川秀樹)から「将来の問題」を読みました。

機械が人間より有能になると?

技術が進歩し、日常生活に新しい技術が浸透していく。私たちの生活環境は変化しています。そして、人から機械へ代替してゆく領域も表れています。著者は「問題は、代役の方が有能になりすぎはしないかという点にある」と述べますが、一体どのようなことなのでしょうか。

そういう先のことはなかなか見通せないが、今日すでにきざしの見えるのはつぎのような問題である。人間の頭と手を通ってできた第二の自然は、ある場合には人間にとって新しい環境となる。例えば冷暖房装置はそういう環境をつくりだしてくれる。それはいつも、人間にとって快適な環境であるべきはずだった。(中略)問題は、代役の方が有能になりすぎはしないかという点にある。現在はまだ人間が自分でやらなければならない仕事がたくさんある。科学文明の発展、普及につれて、楽になり、ひまになった面もあるが、その代わりにかえって忙しくなった面もある。機械がもっともっと有能になったらどうなるか。

「科学文明の発展、普及につれて、楽になり、ひまになった面もあるが、その代わりにかえって忙しくなった面もある」

本稿が執筆されたのは1962年のこと。「機械がもっともっと有能になったらどうなるか」という問いかけを、2022年の現代で受け取っています。働き方も多様化しており一概には言えませんが「忙しさは大きく変わっていない」と思われます。

人、物、お金、情報、知識などが時間と空間を超えて瞬時につながる時代になりました。日々生み出される情報をタイムリーに収集し、加速し続ける環境の変化に乗り遅れないように…。

「問題は、代役の方が有能になりすぎはしないかという点にある」と著者は述べるわけですが、第二の自然(技術)が人より有能になることはなぜ問題だと著者は考えたのでしょうか。何が問題だと捉えたのでしょうか。

そもそも「機械が人間より有能になる」とはどういうことでしょうか?

人間から未知の要素を除いていったらどうなるか?

著者は「人間自身についても、外界としての自然に対するのと同じように、一つ一つ未知の要素が除かれていったら、どういうことになるか」と述べます。

自然界の探求は非常に進んだといっても、私たち人間自身については未知の要素が多いのが、科学文明の現在の段階であるともいえる。人間自身についても、外界としての自然に対するのと同じように、一つ一つ未知の要素が除かれていったら、どういうことになるか。そこから非常に深刻な問題が出てきそうだということは、おぼろげながら想像できる。

「人間自身についても、外界としての自然に対するのと同じように、一つ一つ未知の要素が除かれていったら、どういうことになるか」

人間から未知の要素が除かれる。それが意味するところは何でしょうか。

たとえば、人体のメカニズムが完全に解明されたとしたら、治療における「副作用」はなくなるかもしれない。それは望ましいことだと思います。

どちらかと言うと、著者の問題提起は「心」や「人格」という概念を念頭に置いているのではないかと思いました。もし人の「心」というものが科学的に解明されたとしたら、それは心が説明可能になるということと思います。

科学による「心」の説明は、その人の存在を「矮小化」するものになりはしないだろうか。その人の総体を捉えることを妨げはしないだろうか。著者の言葉の裏側にある声が聞こえたような気がしたのです。

人から未知の要素を取り除いたとすれば、その先にあるのは究極の没個性化ではないだろうか。未知の部分があるからこそ、人は互いを分かりあおうとする。すべてが既知になった世界では「つながり」が必要とされないのではないか。人に未知があるから、互いにつながりあうのではないでしょうか。

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