「音を体感することは、空間を身体の内側に取り込むことではないか」
そのようなことを思うわけです。
日々、1分1秒いや無限に短い時間の中で音にふれ続けているわけですが、そのように意識する瞬間はさほど多くはないかもしれません。
コンサートホールあるいは野外で「生演奏」を聴いていると、その場の空間そのものが身体の内側の隅々まで入り込む感覚を覚えます。
ホールという「閉じた空間」は「有限の広さの空間」として認知できますが、野外という「開いた空間」も物理的な仕切りが存在しないにも関わらずなぜか目には見えない、それこそ結界や膜のようなものに包まれている感覚があるのです。
音は発信源から放たれると、そのエネルギーが次第に失われてゆきますが、音が消える瞬間、音が届いたであろうその先まで「空に満ちている」という気がするのです。
開いているけれど閉じているように感じるし、閉じているけれど開いているように感じる。
一見すると矛盾しているようですが、「からだ」もまた細胞膜の内側と外側で分かれているようでも完全には閉じておらず、絶え間なく内側と外側が相互につながり、交換を続けることで存在していることを考えると、そこに矛盾はないだという実感が湧いてきます。