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音、空間、そしてからだ〜開いているけれど閉じている、閉じているけれど開いている〜

「音を体感することは、空間を身体の内側に取り込むことではないか」

そのようなことを思うわけです。

日々、1分1秒いや無限に短い時間の中で音にふれ続けているわけですが、そのように意識する瞬間はさほど多くはないかもしれません。

コンサートホールあるいは野外で「生演奏」を聴いていると、その場の空間そのものが身体の内側の隅々まで入り込む感覚を覚えます。

ホールという「閉じた空間」は「有限の広さの空間」として認知できますが、野外という「開いた空間」も物理的な仕切りが存在しないにも関わらずなぜか目には見えない、それこそ結界や膜のようなものに包まれている感覚があるのです。

音は発信源から放たれると、そのエネルギーが次第に失われてゆきますが、音が消える瞬間、音が届いたであろうその先まで「空に満ちている」という気がするのです。

開いているけれど閉じているように感じるし、閉じているけれど開いているように感じる。

一見すると矛盾しているようですが、「からだ」もまた細胞膜の内側と外側で分かれているようでも完全には閉じておらず、絶え間なく内側と外側が相互につながり、交換を続けることで存在していることを考えると、そこに矛盾はないだという実感が湧いてきます。

ところで、「からだ」ということばになぜ「死体」の意味があるのか?
「からだ」は人間のみならず動物にも使うことばだが、生命を有する物体にしか使いません。そもそも生命体は、生まれ落ちた瞬間から、やがては永遠に死ぬという運命を内包しており、無から生じて無に至る、発生から消滅までのすべてのプロセスを収めた時間性を抱え込んでいるのが「からだ」です。

小池博史『からだのこえをきく』

さらに突っ込んで考えれば、命を失った死体となってさえ、残された生者にとって霊魂が宿ったリアルな歴史として存在する限り、物質的な肉体の範囲を大きく超えて、私たちの記憶と苦悩の引きずり、照射してくる。そのような単なる容れ物以上の意味を持つのが「からだ」なのではないか。

小池博史『からだのこえをきく』

私が舞台制作をする場合、まず初演会場に足を運ぶことが創作の出発点となる。場を見ないでは何も決められません。場から何かを感じるかによって、どんな種をそこに宿すかが決まる。種の媒体となるのが場としての空間であり、空間が実体のあるからだとなって私の脳内に落ちてくるのです。ここで言う「からだ」とは、一種の命を孕んだエネルギー体の意味。創作している間、空間の感触はずっと私の脳内にあり、その脳内空間と感応し続けるわけだが、私にとっての全能のからだと言ってもいい「空間」は無にあって語り出し、からだそのものを成長させ、完成形となって最終日を迎え、一気にバラシ(撤収)が行われてすべて消え去ってしまう。しかし、まるで霊魂のようなエネルギー体の「空間」の感触だけは強く私の体内に残ったまま。私たちの「からだ」の生から死までと同じように。

小池博史『からだのこえをきく』

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