「いかに物に注意を奪われないか」ということ
今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「自己発達における物の役割 - 要約」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
しかし、ある反応が特定の時代とある特定のレベルにおいて適応的なものであっても、そしてその同じ反応がいかに頻繁かつ激しく起きようと、いつも生存に貢献するとは限らない。技術という人間性の発展 - 外部の物を操作し利用する能力 - は、人間の進化で際立った特徴であるが、残念ながらそれは人間の手に負えないものになってしまったようだ。
もし、私たちの注意を過度に過度に引きつけるような事態になれば、世界のそれ以外の部分との相互作用をはぐくむための十分な心的エネルギーが費えてしまう。注意をもっぱら物質的消費という目標に集中させること - つまり物質主義 - で、自己の涵養や他者との関係、また生活にかかわる広範な目的にエネルギーを十分に配分できなくなる可能性が生じる。
経済学者のリンダー(Linder, 1970)が指摘したように、物の獲得と維持は、容易に人の生活を埋め尽くし、他のことをする時間を奪い、挙句の果てにはその人のすべての心的エネルギーを使い果たしているその物自体まで使えなくなってしまう。そのような事態に陥ってしまうと、物の適応的価値は逆転する。物は心的エネルギーを解放するのではなく、それを無益な仕事に縛り付けてしまう。以前は道具だったものが、その使用者を奴隷にしてしまうのである。
「注意をもっぱら物質的消費という目標に集中させること - つまり物質主義 - で、自己の涵養や他者との関係、また生活にかかわる広範な目的にエネルギーを十分に配分できなくなる可能性が生じる。」
この言葉が印象的でした。
そして、この言葉を象徴する道具として「スマートフォン」が頭に浮かんできました。
「歩きスマホ」「ながらスマホ」という言葉に象徴されるように、自分の注意・意識がスマートフォンに奪われてしまう。車の接近状況、歩道の状態。
様々なことに、多方向に気を配らなければ、外の世界を無事に歩くことは難しいわけですが、そのことを忘れている状態が「歩きスマホ」というわけです。
それだけではありません。安全面の話にとどまらず、視界に入ってくる様々な情報を、外の世界とのつながりを遮断、拒絶してしまっている状態とも捉えることができます。
道端に咲く草花、鳥の鳴き声、すれ違う人の表情。立ち並ぶ建物の佇まい。
著者の言うところの「心的エネルギー」が「意識」や「注意」と言い換えることができるならば、そうした外の世界の光景に意識を向け、時にふと立ち止まってじっくりと観察してみる。意識を向ける。
現代の情報社会において、私たちはじつに多くの情報に取り囲まれている(というより、情報の洪水に流されているような状況かもしれませんが)。これからの時代は「いかに物に注意を奪われないか」ということが、生活に瑞々しさを取り戻すための秘訣なのかもしれません。