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「制約とコンセプト」は想像力の源泉

今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「展覧会「JAPAN CAR」」を読みました。

昨日読んだ内容を少し振り返ると、「モノ・生活・文化」という話にふれました。著者は「生産物がいかなる文化を育むかという視点でものを考え、表現すること」を説いていました。

生み出したものが自己完結するならば作って終わりでよいかもしれません。ですが、それが誰かに目にふれて、誰かの生活の一部となっていくならば、作って終わりというわけにはいかない。

最近、「生活とは流れではないか」と思うことがあります。時の流れ、思考の流れ、行動の流れ、人の流れ、物の流れ、お金の流れ、アイデアの流れ、などなど。物が生活という流れの一部になると、少なからず流れが変わるのではないかと。流れとはたえまなく続くプロセスであると。

物というのは何も人工物でなくとも構わなくて、たとえば、自宅に一輪の花を生けてみる。

朝を迎え、花が視界に入り、意識が向く。ほんの少しの時間であるかもしれないけれど、花から何かを受け取って清々しい気持ちになるとしたらどうだろう。花がある生活と花がない生活。意識にのぼらないかもしれないけれど、気持ちの流れが変わっているのではないでしょうか。

ある人の生活とある人の生活が交わるところに「文化」という大きな流れが生まれる。そう考えて「生産物がいかなる文化を育むか」という著者の問いかけを「その物は生活の中にある流れをどのように変えるだろうか?」という問いとして捉えてみたい。そのように思ったのでした。モノをプロセスとして捉える。

さて、今回読んだ範囲では「車のデザインから見える日本」というテーマが展開されていました。

「制約とコンセプト」は想像力の源泉

著者は2008年にパリで、2009年にロンドンで開催された「JAPAN CAR 飽和した世界のためのデザイン」展を企画・構想したメンバーです。

著者の他には、建築家の坂茂氏も構想に加わっています。

自動車の登場は人の流れを変えました。量産による低価格化によって身近なになりました。新しい快適を求めて様々な車種が登場し、量的に、種類的に「クルマ」というモノの意味空間が飽和していく。意味空間の余白を探しては想像力・創造力で余白を埋めていく営みが脈々と続いています。

そのような飽和した世界において「人間にとってモビリティとは何か?」を問いかける。諸外国との比較で見えてくる日本のオリジナリティとは何か。

クルマはもうあって当たり前の普通の道具になった。したがって、求められるのは機能と効率、そしてそれを過不足なく体現するデザインである。これを寂しいと感じるか、ものに対するふさわしい認識が成熟したと見るかは難しいところだが、大事なことは、そこに他の文化圏にはないオリジナリティが生まれている点である。この点を見逃してはいけない。

機能と効率。過不足なく体現するデザイン。機能と効率は数量で測ることができるのに対して、デザインは必ずしも数量に還元できないところがある。そして、それらは独立しているのではなく、互いに依存しています。

あるデザインのもとで機能と効率が測られ、機能と効率を具現化するデザインが磨かれる。両者が調和するポイントを探り続けていく。そこにはコンセプト・思想がある。最初から決まっている場合もあるのかもしれないし、手探りで見えてくることもある。

「JAPAN CAR 飽和した世界のためのデザイン」展で「小ささ」「環境技術」「移動する都市細胞」という三つの切り口で編集されているとのこと。

コンパクトながら窮屈さを感じさせない快適な空間が生まれる。小ささはエネルギー効率を高めて環境負荷が減る。クルマは細胞のように都市をかけ巡っている。

車を細胞と捉えると無機質な印象はどこかに消えてしまい、不思議と瑞々しく感じてきました。そして、空間的・物質的な制約があり、その制約の中でコンセプト・思想を基盤として想像力が働くのかもしれない。そんなことを思いました。

差異の数を減らして、本質的な差異を浮かび上がらせる

著者は展示の工夫について次のように述べています。

展示に際して工夫した点がひとつある。それは車のボディカラーを白に統一したことである。モーターショーのように、個性を際立たせ、エモーショナルな欲望を喚起することが目的ではない。むしろ冷静に個々のクルマとそれが生み出された思想の背景に向き合ってもらいたい。いくつかの色が検討されたが、結果として白に落ちついた。日本車に多い外板色であり、また白にすることで色を捨象するという意味が際立つからである。

「個性を際立たせ、エモーショナルな欲望を喚起することが目的ではない」

この言葉が印象的でした。色を白に統一することで、各車種の差異は構造、フレームに集約されます。目に見える枠組みと、その中に余白として生じる何もないけれど確かに浮かび上がる空間。

「この車を作った人はどんなことを考えたのだろう?」

取り入れる情報が少ないほど、逆に自分の中で想像がふくらんでいくのは気のせいでしょうか。思い巡らせる余白、自由がある。

本質的な差異に意識を向けるために、その他の要素の差異を消してしまう。言い換えるならば、変数の数を思い切って減らしてしまう、あるいは本質的な変数以外は値を固定してしまう。大切な考え方だな、と感じます。

展覧会の導入部には、展示車両を小さくデフォルメした模型の数々と、それと対をなす盆栽群を配した。盆栽は、自然を人為との交感を通して味わう繊細な感受性と、緻密で凝縮感のあるテクノロジーの象徴である。

「盆栽は、自然を人為との交感を通して味わう繊細な感受性と、緻密で凝縮感のあるテクノロジーの象徴である」

この言葉も印象的でした。「自然と人為との交感」という言葉からは、人が対話的に盆栽に手を入れていく様子が浮かんできました。いたずらに手を入れるのではなく、たえず調和に向かっているかを確かめながら進めていく。

車も盆栽もヒトの思考が具現化されたもの。技術それ自体で存在するのではなく、技術の裏側には思想がある。車にも盆栽にも通底している日本の世界観を見出してほしい。そのような想いが込められた展示なのではないかと思いました。

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