心を下支える"変化"や"流れ"〜和食の心という表現を通じて〜
「心とは何か?」という問いは古くから考えられてきていて、宗教や生物など、様々なアプローチのもとで様々な答えが存在している問いです。
そもそも「心とは何か?」という問いは「心をどのように定義するか?」という問いに始まり、「万物に共通する」心、普遍的な心というものを探る営みへとつながってゆく。
もしも万物に共通する普遍的な心が「目に見える」ものであれば、何らかの合意のプロセスを経て「存在証明」という形で決着がつくかもしれません。
しかし、いわゆる心は不可視であり、ゆえに「目に見える」という形で存在を証明する、答えを出すことは困難です。
また、心が存在するのであれば、それは生物だけに存在するのか、あるいは無生物にも存在するのか、という問いも広がります。
たとえば「和食の心」というとき、心は「本質」や「真髄」のニュアンスを帯びています。では、なぜ「和食の本質」や「和食の真髄」と表現せずに、「和食の心」というのでしょうか。
「本質」や「真髄」はどこか「唯一の真理」を指していて、「唯一の真理」は静的な感じを受けます。
一方、「和食の心」、なぜか和食にふれる「人の存在」が思い浮かぶのです。「和食を味わう」という行為を通じて、その人の中で何かしらの「変化」が生まれてゆく。そのような変化には動きがある。「流動的」だと感じます。
つまり、心という概念を下支えるのは「変化」や「流れ」であり「変化すること」や「流れること」に共通する普遍性を探ることが「心とは何か?」という問いを深めるヒントになるような気がします。
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