「伝える」と「伝わる」の非対称性 〜ゆらぎと自由〜
「"伝える"と"伝わる"の非対称性、不確実性」
道を歩いていると、なぜだか、ふとそんな言葉が降りてきました。
たとえば「気持ち」を伝える。
気持ちの伝え方にも色々あります。
言葉で伝えるにしても、文字で伝えるのか声で伝えるのか。文字で伝えるにしても、言葉づかいをどうしようか。やわらかい言葉を使うのか、漢字と仮名のバランスはどうしようか。顔文字を入れようか、など。
声で伝えるにしても、声のトーン、話すスピードはどうしようか。さらには声を出している時の表情や、どのような場所で伝えるのがよいだろう…など考えることは様々です。
「どうにか伝えたい。伝わってほしい」と祈るような気持ちで考えるわけですが、だからと言って自分が思うとおりに、考えるとおりに「伝わる」とはかぎらない。つまり不確実性、言い方を変えれば「ゆらぎ」が「伝える」と「伝わる」の間に存在しています。
「伝えられた側」からすると、たとえば体調がよい時とすぐれない時では、まったく同じシチュエーションでも伝わり方、解釈の仕方は違うと思います(時間を巻き戻すことができないかぎり検証不可能なのですが)。あるいはそもそも伝え手が選んだ言葉を受け手が知らなければ、言葉の意味やニュアンス、その上に重なる気持ちは伝わらないでしょう。
人間関係におけるすれ違い、あるいは衝突、争いなどの原因の一つとして、コミュニケーションにおける「ゆらぎ」があるように思いますが、ゆらぎをゼロにすることはおそらく不可能に近いでしょう。
その中で、ゆらぎを可能なかぎり抑えようと努めること、相手を思いやり、同じ時を過ごしたりする、その過程こそ、時間はかかるかもしれませんが、とても大切なように思います。
また、「どうしたらしっかり伝わるかな」と相手のことを想像したり、逆に「あの言葉はどういう意味だったのかな」と伝えてくれた人のことを振り返って想像してみたり。
「伝える」と「伝わる」の関係が非対称的であり、ゆらいでいるからこそ、お互いを想像する余白や自由が生まれると考えると、「もしあらゆる物事が確実である世界が存在するならば、その世界は望ましいのだろうか?」という問いを考えてみると、また世界の見え方が変わってくるかもしれません。