愛
2年前の8月
僕は2週間の出張に行っていた。出張先は愛知県岡崎市だった。
石川県に母と2人で暮らしていた頃だ。
石川県から岡崎市へ行くにはまずしらさぎで名古屋まで行く必要があった。
そこから名鉄にのって東岡崎駅まで行く。
それなりに時間のかかる旅だった。
今でこそ出張慣れしているが、当時はまだ数回の出張に行ったことしかなかったので、二週間はとても長く感じた。
家から離れて二週間生活することに対して不安がなかったといえばそんなことはない。
厳しいことを言いながらも心配性な母も、僕がちゃんと生活できているか心配していただろう。
だが、もうアラサーのいい大人なので、こちらから母に連絡を取ることも、母の方から連絡してくることも特にしていなかった。
そんな母が、朝から電話をかけてきたのだ。
二週間の半分が過ぎた8月7日のことだった。
要件は、当時一緒に暮らしていた愛犬の危篤の知らせだった。
僕が中学生の頃
祖父母と母親と4人で暮らしていた頃、我が家に小さなトイプードルがやってきた。
母と行ったペットショップで一目惚れし、店員さんにお願いをして抱っこをさせてもらったら、とても人懐っこくて僕から離れようとしなかった小さなその子犬を、そのまま我が家へ迎えたのだ。
カールした黒い毛がもこもこで、ティディベアのように小さな子犬。
その女の子を「愛(アイ)」と名づけた。
愛はすごくお転婆で、ティッシュを散らかしたり、母のケータイのストラップを齧ったり、あちこちでおしっこをしたり、なかなか手のかかる子犬だった。
小さな毛糸玉が家の中を走り回ってるみたいだった。
以前、我が家では中型犬を飼っていた。シェットランドシープドッグ。
中型犬が家の中で走り回ると大変なので外へ散歩しに行く必要があったが、超小型犬の愛は家の中を走り回るので外まで連れていく必要はなさそうだった。
それでも最初の頃は外へ連れていっていた。
朝、軽く家の周りを歩くくらい。大体僕の仕事だった。
愛は外に出るのが好きだったのか、嬉しそうに僕の後ろをついてきていた。
ある日の散歩
一度、愛が散歩中にその場に座り込んだことがあった。
「行くよ」と声をかけても動こうとしない。
今ならわかるが、甘えん坊な愛は、疲れたら座り込んで抱っこしてもらえるのを待つのだ。
だが、その時の僕は反抗されたことが気に入らなかった。
「じゃあもういい!」と愛を繋いでいたリードを放り捨て、一人で先に歩き出したのだ。
愛も置いていかれると思ったのだろう、さすがについてきた。
愛が歩き出した、と思ったその瞬間、近くの家で外飼いされていた大きな犬が愛に向かって吠えた。
僕の方に向かおうとしていた愛は、一瞬で踵を返し反対方向へとんでもないスピードで走り出したのだ。
焦った僕は愛を追いかけようとして転んだ。
僕が転んでいるうちに愛はあっという間に僕の視界から消え去ってしまった。
愛はすごく怖かっただろう。飼い主は自分を置いていこうとしているし、自分より大きな犬に吠えられるし。
町内を走り回って探したけれど愛はいなかった。
どうしよう、愛がどこかに行ってしまった、逃げてしまった。
すごく後悔した。
しかし、愛は見つからない。
どうすることもできずとりあえず家に帰ることにした僕。
家に帰ると玄関のドアの前で愛が震えながら座っていた。
愛は、自分の家を覚えていたのだ。
自分を置いていこうとした飼い主から逃げることはせず、恐怖に震えながら無我夢中で自分の家まで走ったのだ。
その道中で事故に遭わなかったのは本当に奇跡だった。
今の僕があの頃の僕に会えるなら、僕自身に激怒する。
何があっても愛犬のリードを絶対に離すな、と。
祖父と愛
祖父は典型的な「昭和の亭主関白」で、祖母のことはまるで召使いのごとき扱いだった。
そして、そう言った関係性を愛は理解していたようだ。
いつも祖父の近くにいた。
祖父にくっついていれば誰も干渉することはできない。愛はそのことを理解して祖父にベッタリだった。
祖父も自分にくっついてくる愛を可愛がったが、その可愛がり方には少し問題があった。
祖父はほぼ毎日のように夜中に起きてきてリビングで酒を飲んでいたのだが、その時愛も起こして祖父の晩酌に付き合わせていたのだ。
そして、祖父はその時にチーズや魚など、人間の食べ物を愛に与えていた。
僕と母は徹底して人間の食べ物は食べさせないようにしていたのだが、祖父母はちょくちょく、いや、祖父に至ってはしょっちゅう、人間の食べ物を与えていた。
当然、愛は太った。目に見えて太った。後ろ姿はまるで牛のよう。
一時期は5kgを超えるほど大きくなり、さすがにまずいと獣医から言われるくらいだった。
しかし、過剰な塩分や脂質による健康リスクをどれだけ説明しても、祖父だけは愛に人間の食べ物を与えるのをやめなかった。
このままだと愛は病気になってしまうかもしれない、もう祖父の近くに置いて置けない、そう思っていた矢先、祖父が脳梗塞で倒れた。
そして駆け込んだ病院でそのまま入院することとなった。
祖父が家にいなくなり、人間の食べ物を与えらることがなくなった愛は、あっという間に痩せ、適正体重まで戻ったのだった。
祖父の入院生活についてそれはそれで波瀾万丈があったのだがそれはまたの機会に。
愛の病気
思わぬ形でダイエットに成功した愛だったが、その頃にはもう「老犬」に分類されるくらいには歳を重ねていた。
愛をお迎えした頃には中坊だった僕も、アラサーの仲間入りをするくらいには年月が過ぎていた。
その頃の愛はほぼ1日を寝るか食べるかして過ごす、ぐうたら犬になっていた。
まあ、老犬だからぐうたらしているくらいで全然いいのだが、たまにしんどそうな咳をしたり、興奮し過ぎた時に倒れるようになっていたのが心配だった。
獣医が言うことには、心臓が悪いから通院しろとのことだった。
だが、その獣医から処方される薬を飲ませても全く効果がないように見える。むしろ悪化しているように見えた。
薬の副作用で痒いのか、身体中を舐めたり掻いたりしてあちこちにハゲができ、痛々しい姿になっていった。
獣医にそのことを伝えても、仕方のないことだと同じ薬を処方し続けた。
今だから言える、あの獣医はヤブだ。
僕はあの獣医を今でも許していない。病院名を出して批判しないのは、名誉毀損などと言われたくないからだ。
しかし、前に飼っていた子もお世話になっていた病院だから、と祖母はその病院に通わせ続けた。
愛と一緒に暮らして世話をしていたのは祖母だったから、祖母の意見を尊重していた僕と母だったが、流石に痛々しい愛の姿をそれ以上見ていられなかった。
祖母を説得し、評判の良い他の病院へ愛を連れていくこととなった。
犬猫だけでなく、爬虫類両生類鳥類、ちょっと変わった動物だってなんでもござれのすごい病院だった。
効果覿面。
新しい獣医さんはしっかりと診て、適切な薬を処方してくれたようだった。
愛はみるみるうちに回復し、少なくともあのヤブ獣医にボロボロにされる前の姿には戻った。
祖母も、「もっと早く連れて行けば良かった」と言っていた。
とはいえ楽観視できず
愛は新しい病院へそれなりの頻度で通院することになった。
その頃、仕事が平日休みの僕が、いつも愛を車に乗せて病院へ連れて行っていた。
間違いなく、僕の車の助手席に一番乗った女の子は愛だ。
いまだにその記録を更新する女の子が現れないのは…まあ、今ここでする話ではないか。
病院の帰り、僕は少し愛を公園に連れて行ったりした。
できる限り、愛との思い出や一緒に過ごす時間が欲しかった。
通院のおかげで病状は安定しているとはいえ、完治することはもうできないのなら、近いいつか、別れが訪れてしまうことは覚悟していた。
だから、できる限り一緒にいてあげたかった。
その頃には愛を僕と母で引き取って世話をしていた。
ちょうどコロナの影響もあって母が在宅ワークとなり、車を持っていない祖母のところよりうちに置く方が都合が良かったというのもある。
祖父が入院してから、愛の中で懐き度ランキングは更新されたようで、僕にばかりくっついてくるようになった。
僕が寝転がっていればくっついて一緒に寝るようになったし、僕が仕事から帰ってきた時は興奮し過ぎて倒れるくらい喜んだ。
朝起きて2階から階段を降りると1階で愛が座って待っている。
仕事から帰ってくると玄関で愛が座って待っている。
「ただいま」という僕に、「おかえり!私を置いてどこ行ってたの!」と言わんばかりに飛びかかってくる愛。
そんな日常が当たり前になっていった。
最期は必ず訪れる
2021年8月7月。
愛が亡くなった。
母からかかってきた二度目の電話は、僕にとって受け入れ難い現実を伝えるものだった。
倒れてから一度は意識を取り戻して落ち着いたが、しばらくして息を引き取った、と。
朝食が喉を通らなかった。
家に、愛のところへ、帰りたかった。
だが、休みの日ならともかく、その日は出勤だった。
急に休めば確実に迷惑をかけることになるだろう。
しかし、その時の僕には、迷惑をかけて白い目で見られることになったとしても、大切な家族のために帰りたい気持ちの方が大きかった。
まず上司に連絡し、出張先の責任者に連絡し、結果としてその急な欠勤を許してもらえることとなった。
この時の感謝は、どれだけ伝えても伝えきれないだろう。
しらさぎに乗り、金沢へ向かった。
家についた僕を迎えた愛は、静かに眠るようにベッドの中にいた。
元気に飛びかかってくる姿も、遊んで欲しいと言わんばかりに尻尾を振る姿も、そこにはなかった。
感情を抑えることができなかった。
次から次へと涙が溢れ、声にならない声が漏れた。
どれだけ声をかけても、抱き上げても、愛は動かない。
軽くて冷たくて硬かった。
そこにもう命がないことを実感して、最期の時に一緒にいてあげられなかったことに、悔しさと悲しさが込み上げてきた。
その後のことはあまり覚えていない、思い出せない。
愛の葬儀をしてもらったことは覚えている。
最期のボタンを押したのは僕だ。
押せなかった。
押したら、本当にもうこの世に愛がいないことを決定してしまう。
そう思うと、押せなかった。
でも、押さなくてはならない。
何度も押そうとしては押せず、もう永遠にこの場所から動けないかもしれないと思った。
押した。
火葬が終わるのを待っている間もずっと涙が止まらなかった。
時間の感覚などもはやない。
どうやって岡崎まで戻ったのかも覚えていない。
気づけばホテルでまた泣いていた。
眠れなかった。
次の日の朝もずっと涙が止まらなかった。朝食を食べる気すら起きなかった。ベッドから起き上がることもできない。
だが、仕事の時間はやってくる。
これ以上迷惑をかけるわけにはいかなかった。
「ただいま」と「おかえり」
出張が終わり、今度こそ本当に家に帰る。
だけど、その家にはもう愛はいない。
「ただいま」と帰っても、「おかえり」と迎えてくれる愛はいない。
僕は出張に出る朝、「いってきます」と愛に言った。
愛は「いってらっしゃい」と言ってくれていただろうか。「いかないで」と言っていたかもしれない。
僕の「ただいま」を待っていたかもしれない。
僕を迎えて「おかえり」と言いたくてたまらなかったかもしれない。
そんな考えがずっと頭を離れない。
「いってきます」と別れた家族に「ただいま」を言えることがどれだけ幸せか。
「ただいま」に「おかえり」と返してくれる家族がいることがどれだけ幸せか。
愛は、亡くなったその日の朝、階段の下から動かなかったそうだ。
母が「どうした?」と声をかけても、ずっと階段の下で上を見つめて座っていたらしい。
その意味に気付いたとき、また悲しくて辛くて、涙が溢れ出して止まらなかった。
待っていたんだ。
僕が2階から降りてくるのを。降りてくるはずのない僕を。待っていたんだ。
本当に、寂しい思いをさせてしまった。
僕に、いつものように抱き上げて欲しかったんだ。
そして、その願いが叶わないまま。
2年が経ち
もうあれから2年が経つのか。
いまだに、愛のことを思い出すと、涙が出てくる。
本当はこの記事も、気持ちの整理がついていると思って書き始めた。
けれど、書き進めれば進めるほど、まだ愛を失った悲しみが心には残っていて、簡単に掘り返すことのできるほど浅いところにあるのだと言うことを知った。
まだしばらく、この気持ちと向き合う時が何度か訪れるだろう。
いつまでも忘れられない。忘れたくない。
何事もなければ、僕が死ぬのは数十年後の話だろうが、僕が死んだ時、愛は虹の橋のたもとで待っていてくれるだろうか。
その時、「ただいま」と伝えれば、僕の罪は許されるだろうか。
愛は「おかえり」と僕を迎えてくれるだろうか。
それはわからない。
もしかしたら、もう生まれ変わってこの世に生まれているかもしれない。
まだ生まれ変わってなくて、これから生まれ変わって、また僕のところに来てくれるかもしれない。
そんな取り止めもないことを、信じながら僕は生きていくのだ。