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日陰は日向があると出来る

右へ行くことがなければ左へ行くことが出来ないのと同じように下に行ったことがなければ上にも行けない。
日陰に居たことがなければ日向の意味もわからない。

世の中は逆の概念みたいなもので成り立っている。
もちろん、その両極の間はグラデーションのようになっているわけだけど。

この両極は相対的なものだ。だけど、その中に身を置くものとしては自分の立ち位置は絶対で、日陰にいたらそれはもう日陰でしかない。圧倒的に日陰だ。
面倒なのは、身を置く自分としては立ち位置は絶対なので、逆に相対的に物事を見てしまうことがあるのだ。

わかりやすく言うと、自分は日陰にいるけれど、後ろを見たらさらに暗闇がある。だから自分はまだましだ、と考えがちだということ。
これは何でだろう、と考えてみると、結局ひとは自分の立ち位置を自分で見定めるのが非常に難しいから、と言えるんじゃないか。

Aという自分から見える座標とCという自分から見える座標から推測したら自分のいるBという座標はここいらだろう、と考えるしかない、ということだ。
これがポジティブに機能している時はまだいい。

あのAという場所に行こう、と考えるのは建設的だからだ。
しかし一旦これが違う見方、あのCよりは自分がいるBの方がまだマシだ、と考えだすと変な方に思考が動き出す。
誰だって自分は幸せだと思いたい。
そりゃ私だってそうだ。

「自分は幸せだ、まだCよりかは」という思考は存在しないCを作り出そうとするかもしれない。自分がいるここは日陰だけど、あそこよりは日向だよね、と考えるために意図的に日陰を作り出す。
逆に「自分は不幸せだ、何故ならAの位置にいないから」と考えるかもしれない。
これも考え方としては不健康な気がする。
自分は神様じゃないけれど絶対的な視点からみたら充分日向の可能性があるかもしれないのに。

この考え方を振り払うのは難しい。
先に書いたようにひとは自分の立ち位置を自分では見極めにくいし、立ち位置を定められないと不安だからだ。

日陰にいるから日向の存在を知ることができる。
右を知っているから左を知ることができる。
悪を知らなければ善を知ることはできない。

立ち位置なんて相対的なものだ。
相対的なものはグラデーションのようになって存在している。逆にいうと、それぞれが無ければ両極も存在できない。
意図的に両極を作らなくてもいいんじゃないか。
作らなくても存在してるんだから。
さらに、立ち位置なんてひとつじゃないのだ。
ある位置であなたが日向にいてもある位置では日陰にいるかもしれない。
逆もあるでしょう。

そう、改めていうと、立ち位置、と考えるそれは何かひとつの物で決められるものじゃないと思うのだ。

ひとつの物で日陰を知る人は別の物で日向にいて、日陰のひとの助けになれるかもしれないし、別のものでは逆の立場になって助けられることがあるかもしれない。

もちろん、自分はこの立ち位置で何かをしなきゃならない、と決めてるひとにとってそんなに簡単な割り切りは出来ないということもわかってますが、それでも。

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