まほろば パイロット稿

「エミシとアシハセ討伐の水軍の将に阿倍比羅夫(あべのひらふ)という者がいます」
中大兄皇子はそれを聞いて言った。
「百済が助けを求めて来ておったな」
中臣鎌足が首を縦に振った。
「水軍に救援させましょう」
阿倍比羅夫のもとに使者が来て近江京に呼ばれていて近江京に行くと、百済に水軍を率いて食糧を届けよと命じられた。
白村江に至った阿倍比羅夫は、八百艘の水軍の中に居た。
干潮で船が岸より遠く、唐の水軍の劉仁軌の火計に阻まれた。
戦いは倭と百済の負けであった。
四百艘が沈んだ倭の水軍の残存船に生き残った阿倍比羅夫は筑紫を目指した。

白村江の戦いの後に唐と新羅の連合軍が倭にやって来た。 筑紫でその軍を迎えた阿倍比羅夫は、劉徳高という者が居ることを知る。聞けばこの劉徳高を飛鳥まで送り届けるように命じられた阿倍比羅夫はその使節の中に大海人という者が居ることを聞き、戦後、倭に新しく作る国の王となるということを知る。

中大兄皇子の子、大友皇子との間に大海人が戦さを起こして不破道に至った大海人が大友皇子を追い詰めて戦争は大海人の勝ちとなり、倭国は西半分が占領されて日本という国となる。

飛鳥で大海人は即位して浄御原天皇と呼ばれた。
浄御原天皇は越前の愛発、美濃の不破、伊勢の鈴鹿に関を作り、東の倭国との国境とした。

白村江の戦いとミッドウェーの戦いは戦後の様子が似ている。敗戦した日本側にはこの戦いは負けると思っていた人々がいて、白村江の戦いでは阿部比羅夫の水軍、ミッドウェーの戦いでは日本海軍が負けると分かっていて戦いをした形跡がある。

倭国へと向かう海の上で阿部比羅夫は水平線を眺めていた。
「海は恐ろしいこともあるが広くて自由だ」
大宅鎌柄が視線の先を追い言った。
「自由ですか」
「わしはたとえ死んだとしても自由がいい」
阿部比羅夫は深手の傷が癒えぬまま、そう言って艫に座っていた。

白村江の戦いで占領軍が倭国にやってきて最終的に占領が完成する時に起きるのが壬申の乱である。壬申の乱の戦後、天武天皇が征服王朝の日本の王として即位し、越前愛発、美濃不破、伊勢鈴鹿に関が作られる。関の東は倭国、西は日本ということになり、三関は国境ゲートとなる。

奈良時代は征服王朝時代だったので、奈良時代の終わりに天武天皇の血脈が絶え、天智天皇の子孫が王となり遷都し、遷都した桓武天皇は三関も廃止する。天智天皇は倭国の王で天智天皇の子孫が王となったので征服王朝時代は終わり、日本という国号はそのままだが東の倭国との間に緊張は和ぐ。

白村江から筑紫に帰って来た阿部比羅夫はそのまま大宰府を作る。大宰府が唐と新羅の傀儡政権の拠点でその将軍として阿部比羅夫がそのまま大宰帥となる。やがて、征服王朝は新しく都を奈良に作り平城京となる。内裏を造営する時に奈良にあった倭国の王墓を壊して造営した。大日本帝国が負けて占領軍が東京にGHQを作り占領政策を行ったのと同じようなことが奈良時代に平城京で行われた。
奈良時代の服装が唐の服装とよく似ているのは占領政策だったのであろう。

つまり天智天皇と天武天皇には血縁関係がない。後の時代に祭祀を始めた皇室の菩提寺の泉湧寺では天武天皇の血脈の祭祀をしていない。

「水軍をいくら持っていても戦いは負けるということがある」
劉徳高は飛鳥へ向かう船中で阿部比羅夫にそう言った。
「戦さは時の運、負けることもございます」
「そうだが君(くん)と臣(おみ)とではそれも違うのだよ」
「大海人という男を乗せましたがあの者は」
「新しく倭に作る国、日本という国になるのだがその王である」
「君ですか」
劉徳高は首を縦に振った。

飛鳥に着いた阿部比羅夫は劉徳高を送り届けて建設中という都の辺りを歩いた。
「浄御原宮(きよみはらのみや)という都になるのだそうです」
「仮の都だろう。おそらくもっと広いところに大きい都をいずれ作るだろう」
「奈良の地に王墓がありますがあそこに内裏を作って新しい都にしようかという計画はあるそうです」 白村江以来、阿部比羅夫に付き従っている大宅鎌柄(おおやけのかまつか)がどこで聞いてきたのかそういうことを阿部比羅夫の耳に入れた。
「浄御原天皇(きよみはらのすめらみこと)というお名前だそうです。新しい大君」
「大海人という名だと聞いていたが大君になるのか」
「明日即位されます」
「日本という名になるそうですね倭国」
「倭国は東にまだあるだろう」
「浄御原天皇が越前愛発(えちぜんあらち)美濃不破(みのふわ)伊勢鈴鹿(いせすずか)に関を作り国境とするそうです」
「中大兄皇子には息子がいたな。大友皇子という」 「壬申の戦さで戦死したそうです」
「あの戦いで勝ったから大海人が即位して浄御原天皇か」
「そのようです」
「唐(もろこし)の決まり、律令格式(りつりょうひゃくしき)というそうですがその三つの関のことも書くそうです三関(さんげん)と呼ばれることになるとか」
「やまとふみ、日本紀という史書(ふみ)も編むそうです。浄御原天皇が息子の舎人皇子(とねりのみこ)にやらせるそうです」
「日本の主は我々であるということを示すのに史書か。剣と玉と鏡は倭国から伝わっておらんのだろうどうも」
「新しく作るのかとそれは」
「剣は熱田宮にあるだろうに」
「君と臣は違うのですよ」

公式記録の日本書紀に阿部比羅夫と大宅鎌柄のことは白村江の戦いの後水軍として派遣されたとだけ書かれており、阿部比羅夫に関しては白村江の戦いの前に蝦夷と粛慎の討伐で北海道の渡島まで至ったとこれも簡単に書かれている。阿部比羅夫は蝦夷と粛慎討伐の時は越の国の長官で白村江の戦いの後は筑紫に戻り大宰帥となっている。

白村江の戦いに関しての話はおおよそ水軍の戦力比が唐対倭が1対4だったにも関わらず倭が負けている。阿部比羅夫にはこの戦いに勝つつもりがなかった節がある。

白村江の戦い以後の倭国は天武天皇の即位で国号を日本と変えており、それは国土防衛のために筑紫に阿部比羅夫が大宰帥として居たというより白村江の戦いの戦後に唐と新羅の連合軍が倭国に進駐した時に大宰府が進駐軍のHQとなったと見たほうがいいように思う。帥(そち)とは将という意味である。

やがて日本が出来て東には倭国があり、西の日本と東の倭国との間に三関が国境ゲートとして設置され奈良時代以降に固関され始めていくのだとみられる。西日本に目立った関や関津がなく東日本との境目に三関がある理由は東の倭国と西の日本が冷戦か敵対関係にあって国境を設ける必要から三関が設置されたとみられ、軍事的理由での固関が奈良時代に多い理由とみられる。称徳天皇が大軍を率いて紀伊に行幸した時に固関が行われており、軍事的理由の固関とはそのような様子だったとみられる。

船に乗って日本列島を移動すると長距離移動が可能となるので水軍の将だった阿部比羅夫の行動範囲は広い。北海道から朝鮮半島までは水軍を率いて赴いており、物理的にそのポイントに至ることの意味がある。唐や新羅の人間とも交信ややり取りをしていたとみてもさほど意外なことでもなく、戦いとなって負けた後の身の上を保証する交渉くらいは阿部比羅夫はしていて、戦後、唐と新羅の連合軍の将として大宰府をHQとして大宰帥になったのではなかろうか。

奈良時代に色濃い大陸風の様相とは大陸系の国家が作っていた征服王朝の時代だったからで英国のノルマン・コンクエストのようなことが古代日本でもあったと見たほうがいいように思う。白村江の戦いの戦後がそれを物語っており、そこで阿部比羅夫がどのような立ち位置だったかをみてみると戦後、唐と新羅の連合軍の将として大宰府に進駐し大宰帥となってその後、西日本に征服王朝の日本が出来る。一気に飛鳥まで占領されたのではなくまず九州に大宰府という進駐軍のHQを作って占領政権を作り東へと拡大していき、その進駐軍が作っていった王朝の王として天武天皇が天智天皇の息子の大友皇子と壬申の乱を戦い勝利して即位して日本が出来て、その領域は日本列島全部ではなく西半分くらいで東西の国境を隔てるのに天武天皇は三関を置いたのであろう。

文体が司馬遼󠄁太郎のような書き方をするともう少しごちゃごちゃとするのであろうが、歴史小説は語り描くであるので事実とフィクションをほどよくブレンドすることになる。

手塚治虫の火の鳥太陽編のように戯曲漫画にして阿部比羅夫を登場させた作品があるが、あくまでも阿部比羅夫を当初のメインキャラクターにして描くということをしてみて、そのような話が果たして面白いのかと思っていたが、作品を描くときに体温と理由のない文章をいくら大量に書いたところでただの文章の束でポートフォリオに収める作品ではない。コンテンツの質にこだわれているかというとそういうことはおそらく背中に書いてあるようなことで書いている本人はその像を見ることなど出来ないので気にしても仕方ない。コンテンツに確からしさがあるならそのように描かれていく。

「エミシとアシハセを討伐して渡島まで行った時はあまり思っていなかったが、白村江では火を放たれたのが考えていなかったことで甘かった」
阿部比羅夫は飛鳥へ向かう船中で大宅鎌柄にそう言っていた。
「火は恐ろしい」
大宅鎌柄はまじまじと阿部比羅夫を見た。
「劉徳高にも言い含めておいたが、あくまでも大宰府で帥として居て日本という国を作る様子を見るとだけ言っておいてよかったのだろう」

阿部比羅夫の生没年は不詳である。それを記録したものは残っていない。日本書紀を編んだ時にそれまでの倭国の史書は焚書されたとみられ、前の時代にそういう史書があったことは書かれているがそれをすべて伝承したような書物ではないのが日本書紀である。征服王朝が自身の正統性を主張するのに編んだ史書ならば征服王朝に不都合な事実は消しそこに創作の神話を載せてまで王朝の正統性を主張するのが中華からの系譜でありがちな史書というものであり日本書紀はそういう史書である。

「余豊璋君(よほうしょうのきみ)を送り届けるだけで済むとは思わなかったが、唐と新羅の軍勢が倭国まで来るところまでになると身の処し方を注意せねば首が飛ぶ」
阿部比羅夫が淡々とこう言えるのは生き延びたからに他ならない。
「日本という国はどんな国になるのでしょうか」 「倭国と大して変わらんだろう」
大宅鎌柄は島影を眺めながら言った。
「海と山が変わるわけでもないのですからね」
「時が経てば海と山も変わるかもしれぬ」

浄御原宮では浄御原天皇が急変した様体でいた。 内々に呼ばれていた阿部比羅夫が浄御原天皇を看取った。
大宅鎌柄が言った。
「いま天皇が崩御されたと公にすると東の倭国が攻めてきます」
「どうするのだ」
「比羅夫さまが浄御原天皇におなりになればいい。幸い背格好と顔が似ております」
「大宰帥は誰にするのだ」
「大伴旅人をお召しに」

浄御原天皇が大伴旅人(おおとものたびと)を大宰帥に任じて筑紫に派遣した。
「令が出来上がっていてようございましたな」
「そうだな」
「やまとふみは引き続き編ませよ」
「はい」
「それと倭国の史書(ふみ)だが、すべて燃やせ」

舎人皇子のもとに浄御原天皇からの命で倭国の史書をことごとく燃やせというものが届いた。鵜野讃良(うののさらら)に聞いたところ、浄御原天皇はまるで別人のようになってしまったという。
「そうは言ってもやまとふみに編むのに写しは1つ残しておかねば」
「稗田阿礼(ひえだのあれ)は覚えていましたよ。あなたもそうなさい」

唐の皇帝風にすめらみことを天皇としていたが、天皇とは北辰の不動星、北極星のことを言う。天子南面という中華思想により都の北部に街に南面するように内裏を作るというグランドデザインをしていたのだが浄御原宮が仮宮だったこともあり少し北に藤原京というものを建設していた。計画ではさらに北の奈良の地に京を造ろうというものもあった。

歳月が流れて阿部皇女(あべのひめみこ)が生まれた。
飛鳥浄御原宮を都とした浄御原天皇が崩御して数代、阿部皇女は即位して元明天皇の代となり、平城京が作られる。

元明天皇が退位した後、太上天皇として居て崩御した時に日本は政情不安となり、東の倭国に攻め込まれないように三関に固関使を派遣して国境を閉じた。続日本紀によると固関の初見記事であり、それ以前に三関を固めるという行動を取った形跡がない。奈良時代を通じて政情不安となると固関されており、桓武天皇が即位して平城京から長岡京、長岡京から平安京に遷都し、ほどなく三関を交通障壁だからと廃止するのだが、軍事的理由で遮断していた関を廃止しても問題がない理由というのは、天武天皇から続いてきた血脈が称徳天皇で絶えて、天智天皇の子孫の光仁天皇が即位して白村江の戦いから奈良時代にかけての征服王朝が終わり、日本という国号はそのままだったが、東の倭国と王朝の系譜が同じ王朝となったので光仁天皇の息子の桓武天皇の時に三関で隔てておく軍事的理由がなくなったのだとみられる。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は名前を恵美押勝(えみのおしかつ)と変えていた。政権を転覆するという目論見が事前に発覚して平城京から逃れ越前愛発関を破ろうと北陸道を進んだ。

恵美押勝は平城京からの追手に捕まり愛発関の手前で包囲されて自害したと平城京には報告された。東の倭国に逃れれば巻き返す事ができるというセオリーのようなものがあった。そのためには三関のどれかを突破せねばならず、三関を設置した天武天皇は壬申の乱のとき不破道を進み東の倭国に至り勢力を整えて戦い勝利したということがあるので国境ゲートとして三関を設置して政権転覆を防ぐ意味があった。

桓武天皇以後、三関は構成が変わって再設置される。近江逢坂、美濃不破、伊勢鈴鹿で三関となりその後、軍事的理由は薄れていき固関は儀式となっていく。五位以上の公卿が三関の東に行くことを禁止されて、西の日本と東の倭国は併存の状態が続いていったとみられる。

定点観測として三関を眺めていて疑問に思っていたことが、あの関は西の日本と東の倭国を隔てる国境ゲートであるという見解に至って一応の確からしさが発生しているように思う。白村江の戦いから奈良時代にかけての征服王朝時代を想定するのに参考となる見解に触れてこの話を書くことにした。(1)

参考
(1)古本屋えりえなのYOUTUBEで言及されている征服王朝説

この話はフィクションです。