背中にいっぱい「いいよ」を受けて生きる。
「ごめん、許して」と言われると、自分は気がいい方なので、すぐ「いいよ」って言っちゃう。
でも、あんまり気安く返事してると相手のためにならないよなあ、と思ったりしないわけでもないんだけど。。。
でも、やっぱり「いいよ」って言っちゃう。
そういう性格だから仕方がない。
もちろんプライドが深く傷つけられた時には、こんな自分でも激怒することはある。
いったいどこからこんなエネルギーが湧いて来るんだと思うぐらいカッカする。まるでマグマが地下深くから噴出するみたいだ。
いま聖書の新改訳2017でエゼキエル書を読んでいるんだけど、いやー、神様、怒ってるなー、って思っちゃう。
その怒り方と言ったら世界のひとつふたつ滅ぼしてしまいかねない勢いだ。
まあ実際ノアの洪水の時には世界をひとつ滅ぼしているわけだけど。。。
人間ひとり本気で怒ったら、その熱量は相当なものだ。ましてや永遠で無限の神が激怒したら、そのエネルギーは想像を絶している。
18世紀のアメリカ東岸・ニューイングランドにジョナサン・エドワーズという名説教家がいた。彼は説教壇から神の怒りを劇的な語り口で説いたので、恐怖のあまり失神する聴衆が続出したそうだ。
ホラー映画なんか無かった時代だから、怖いもの見たさというか聞きたさで数百万人もの聴衆が説教を聞きに来たという。
もちろんエドワーズは怖いばっかりで救いの無い話をしたのではない。それだったら福音じゃなくバッドニュースになっちゃうもん。
今日の聖書の言葉。
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
ローマの信徒への手紙 8:1 新共同訳
神の怒りをイエス・キリストは十字架で全部受け止めて完全かつ永遠に終わらせた。それが福音だ。
人間は許されて、生かされて、愛されて、生きることができる。100回失敗しても、いや、1万回、100万回失敗しても、それ以上失敗したとしても、「生きなさい!」と神は言う。
それは、神の怒りをイエス・キリストが終わらせてくれたからだ。
神は好々爺のようになんでも「いいよ」と気安く言う神ではない。許されるって重いことなのだ。許しを成立させるために神は神の命(この宇宙より大きく無限の価値があるもの)を十字架で犠牲にしなければならなかった。
そういう重みのある神の「いいよ」なのだ。
受難節の40日間は、その重みを追体験するシーズンなんだと思う。
そしてイースターを迎えるわけだけど。。。
イエスは十字架にかかり三日目に復活した。それを祝うイースター。イエスのよみがえりは、それがそのまま、全人類の罪がすべて許されたことの証拠でもある。
だから、心は晴れ晴れと身軽になって、神さまの祝福をぜーんぶひとり占めしているような大きな気になって、あたらしい人生をスタートすることができるんだ *。
神さまの無限で大きな「いいよ」を背中いっぱい感じながら。
註)
* Cf. ヘブライ 10:22
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