祈らずには、開けない世界。
今日のお昼はカルボナーラを作ろうと思って、午前中にスーパーに生クリームを買いに行ったんだけど、いやぁ、もう、寒くて、寒くて、こんなに寒いんなら、手袋して来ればよかった、と思った。
朝、起きて iPhoneを開いたとき気温4℃って表示されてたから、家を出るときに「手袋するかなぁ」と一瞬あたまをよぎったけど、しなかった。。。
帰りがけ、かじかむ手をもみながら、間違った判断を後悔した。
日常そういう小さな判断から大きな判断に至るまで、いろんな判断を下して生きているわけだけど、なんと、人間って一日35,000回以上も判断しているらしい *。そんなに頑張って物事を決めてる気は、ぜんぜんしないんだけどね。。。
今日の聖書の言葉。
主を畏れることは知恵の初め
聖なる方を知ることは分別の初め。
箴言 9:10 新共同訳
何が困るって、イベント開催とか行った先でのゴミの分別。これほど困ることはない。だって、地域によっては、数ブロックの町内ですら、隣接の町内と分別方法が異なる場合があるからねー。住んでるひとは慣れてるから何も考えずドシドシ分別できるけど、そうでない自分は冷蔵庫に貼られた「ゴミの収集方法」の表とにらめっこして、うんうん考えなきゃ、できない。
名前は忘れたけど、ある神学者が「神は無限の参照点だ」と言ってた。
人間は判断するとき、必ず何か参照点を使うわけなんだけど。それこそ「ばあちゃんが言ってた」というレベルから「先輩に習った」「ニュースで言ってた」「YouTubeで見た」「取説に書いてあった」というレベルまで、いろんな参照点がある。
でも、参照点が有限であると、困ったことが起きることもある。さあ、これからゴミを分別しよう、というとき、冷蔵庫に貼ってあるのが隣りの町内の表だったり、10年前の表だったりした日にゃあ、役に立たないわけで。。。
いま、時代も世界も、ジェットコースターみたいなスピードで、どんどん移り変わっている。コロナ禍で世界がこんなになるなんて、2019年12月の人類は、ぜんぜん想像してなかったんじゃないだろうか。2020年がはじまって数か月したとき、いったい何をどう判断して生きて行ったらいいか、世界中のみんなが困惑したと思う。いまもその不安な感覚は続いている。
その不安な感覚のなかで、きっと多くの人が聖書のページを開いたんじゃないだろうか。ページの向こうには神がいて、永遠で無限で全知で全能であるその存在が、その手のなかに、世界もわたしたちの人生も握りしめている。だから、聖書のページから聞こえて来る、神の語りかけをキャッチして祈ろうとしたんじゃないだろうか。
神様、わたしがきょう
正しい判断をできるように
助けてください
祈らずには新しい一日を始められないよね。だって、目を開けたらスグに次の35,000回が待っていると言うんだから。
註)
* ぶろぐでひぐぅち「1日の決断回数は9,000回じゃない〜研究では1日あたり35,000回〜」
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