境界線を越えて「だれか」を受け入れることのアイコンとして、パンを食べる。
疫病で自粛している教会の礼拝だけど。。。
いっしょにあつまって祈れない、賛美が歌えない、メッセージを聞けない、というのは、せつないものがある。。。
まあ、もう、ネット配信でいいじゃん、っていう意見もあるけれど。。。
でもね、やっぱり、オンラインだとグルーヴ感が、ないんだよねー。
【グルーヴ】そもそもはアナログレコードの溝(GROOVE)を指す言葉だったものが、ミュージシャンの間でフィーリングを表す言葉となり、集団で心を奪われたり、体を動かしたり、引き付けられたりする感覚に生まれ変わった(by ハルメク Web)
むかーし読んだ説教学の本に書いてあったけど、高壇で牧師が身振り手振りのジェスチャーをすると、それを見ている会衆の「身振り手振りに対応する筋肉」が反応する、ってことが、研究でわかっているんだって。。。
ホントかよ。。。
今日の聖書の言葉。
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
ヨハネによる福音書 6:35 新共同訳
いっしょに祈れない、いっしょに歌えない、だけでなく、いっしょに食事できない、っていうのも、深刻な問題だよね。
疫病の感染抑止の観点からすれば、いっしょに食事する、ってことが、いちばんリスクが高いわけで。
イエス・キリストの教会では、その誕生の当初から、クリスチャンたちがいっしょに食事する、ってことを、たいせつにしてきた。
毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。
使徒言行録 2:46-47 新共同訳
1世紀の頃は、クリスチャンたちが家から食べ物を持ち寄って、だれかの家に集まり、礼拝をささげたあと、いっしょに食事をしていたみたい。
いまでいう、ポットラックパーティー、って感じだろうか。
迫害の時代には地下に潜伏していたクリスチャンだけど、313年にローマ皇帝が一転してキリスト教を公認すると、公会堂(バシリカ)のスタイルをまねた「礼拝堂」がつぎつぎに建てられて行った。
バシリカ様式の礼拝堂は、収容能力がなんと 1,500人以上もあるんだ!
それまでは、だれかの家にあつまって礼拝してたのに、こんどは数千人がいっしょに礼拝することになり。。。
だから、そんな規模のポットラックパーティーを毎週やるわけにもいかず。。。
そこで、食事を構成するエッセンス中のエッセンスを厳選した、パンとブドウ酒だけで「食事」を礼拝堂で行うようになっていった。
自分が属している教会では、1世紀のクリスチャンたちのように「リアルな食事」を礼拝のあとに、する。それを、愛餐会って呼んでる。
メニューは、カレーだったり、うどんだったり、三色ごはん、ちらしずし、シチュー、豚丼っていうときもある。。。
シーズンによっては、鍋パーティーをしたり、外でバーベキューをすることもある。
ある。。。っていうか。。。あった、と言うべきか。
それが再開される日が、いつか、来るのかどうか。。。
ときどき、自分の遠いご先祖さまは、どんなものを食べてたんだろう、って考える。
それこそ、文字もない、鉄器や青銅器もない、稲作もないような時代の、ご先祖さま。。。
たぶん、その日の収穫。。。野山でひろいあつめた木の実とか、射止めた獲物とか。。。を、たき火であぶって、家族で分け合って、食べてたんだろうなあ。。。
きっと、何も食べられない日も、あったはず。。。
そして、血のつながっていない「だれか」を、自分たちの境界線の内側に入れて、家族ではないのに・家族のようにして、食べ物を分け合った日が、あったはず。。。
そういうことを重ねて行った先に、いっしょに食事をすることが、境界線を越えて「だれか」を受け入れる、っていう行為のアイコンになっていったんだと思う。。。
やがて、射止めた鹿やカモが、時を経て、神人共食の直会(なおらい)になり、祝い膳になり、お節料理になり、たぶん、その線上に愛餐会もあるのかもしれないなあ、って感じる。
そういう意味では、教会は境界を越えて「だれか」を受け入れる場所・そのアイコンとして・みんながいっしょに食事をする場所、なのだろうね。
残念ながら、疫病のために、つどうことはできないので、いま自分はこう考えるようにしている。
イエスは言われた
わたしが命のパンである
イエスは命のパンだ。
そのイエスを自分の心のなかに迎え入れる。
すると、イエスは自分の内側で生かす命になってくれる。
いま、自分は命のパンであるイエスによって、生かされている。
そして、あのひとも、このひとも、内側にあるイエスの命によって、生かされている。
イエスという命のパンは、分割できない。イエスはひとりだけ、だからね。
だから、そのイエスを宿しているわれわれも、分割できない。疫病ですら、あいだに割って入ることはできないんだ。
イエスが命のパンである
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?