現実の愛が要請する第5類型としての永遠の愛。
世界には、愛についての歌が、たくさんあるよね。
類型化すると、次の4つがあると思う。
愛のはじまりの歌。ドキドキ感あふれる。
愛の情熱の歌。さわるとヤケドしそう。
愛の終わりの歌。置き手紙のあるガラーンとした部屋。
愛の思い出の歌。破れた愛はもう帰って来ない。
以上を分析すると、愛にはハジマリとオワリがある、ってことがわかる。
つまり、愛には賞味期限がある、って言えるんじゃないだろうか。
愛は有限だ!
それに対して、なぜか人間は「そんなのイヤ!そんなはずない!いつまでも続いてほしい!」って思ってしまう。
こうして、第5番目の類型が要請されることになるんだ。
それが。。。
永遠の愛の歌。いつまでも、いつまでも、終わらない愛。
今日の聖書の言葉。
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
ヨハネの手紙一 4:19 新共同訳
永遠の愛は、ほんとうに存在するんだろうか?
「永遠の愛」という音素(シニフィアン)は、たしかに存在する。
だって、何度でも言えちゃうもん。
えいえんのあい、えいえんのあい、えいえんのあい。。。
で、その音素が指し示す概念(シニフィエ)も、みんなのアタマのなかに、あるよね。
いや、どうだろう。。。自分のアタマのなかダケかも。。。
でも、永遠の愛について書いている他人がいるから、おそらく他人のアタマのなかも同じだろうと想像する。
じゃあ、永遠の愛という概念に対応した実体(レフェラン)が実在するのかどうか?
ここが問題。
これについては、わからない、体験してみるしかない、としか言えないんだけれど。。。
永遠の愛の定義に照らしてみると、なんと言っても永遠だからね。
永遠のむかしから愛してくれて、これから先も、永遠に愛し続けてくれるという、それが永遠の愛だ、ってわけだから。。。
だから、永遠の愛を体験して「わかった!」と言えるようになるためには、こっちも永遠に生き続けなきゃいけないことになっちゃう。
こうなると、ハードルがスゲー高くなるよね。
そんなことが、可能なのか、どうか。。。
しかし、新約聖書は「可能だ」と言うんだ。その証拠聖句が、これ。
あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
エフェソの信徒への手紙 3:18-19 新共同訳
上記で、永遠の愛を「知るようになる」と、はっきり言ってる。
この永遠の愛を体現しているのがイエス・キリストなんだけど、イエスは死んで復活したから、永遠に愛し続けることができるんだ。
かつ、イエスはわれわれに永遠の命を与えてくれるので、われわれも永遠に生きて、永遠の愛を、永遠に体験し続けることができる。
最後の問題は、ハジマリだ。
永遠のむかしから愛してくれる、ってことが、あり得るのか、どうか?
あるのだ。その証拠聖句がこれ。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
エフェソの信徒への手紙 1:4 新共同訳
天地創造のマエとは、時空の連続体が存在するマエ、時間がはじまるマエ、だ。
つまり、神の愛は、永遠のむかしから、われわれを愛している、ってことになる。
この永遠の愛に対して、いま、自分は、どういう立ち位置にいるのか、と言うと。。。
「わかった!」へと至る途上において、昨日も・今日も・明日も・永遠の愛を体験し続けている自分、っていうことになる。
イエス・キリストは
きのうも今日も
また永遠に変わることのない方です *
註)
* Cf. ヘブライ 13:8
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