すごく変わっている福音書記者ヨハネが言いたかったこと?
新約聖書を読んでて不思議に思うのは、イエス・キリストの言葉と行いを記録した「福音書」が、なんで四つあるんだろう? ということ。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書だ。
それらは、イエスの登場にはじまって、バプテスマ、福音の宣教、奇跡、最後の晩餐、十字架、復活の出来事までを記録する、という基本のラインでは一緒だ。
けれど、細かい描写、出来事の取り上げ方、時系列については、相違しているところが結構あるんだよね。
もし自分が編纂の担当者だったら、こんなの適当につなぎあわせて、矛盾のない一冊にまとめてしまえばいいじゃん!と思ってしまう。
なのに、新約聖書は四つの福音書をすりあわせることなく、そのまま収めているんだ。
きっと2世紀のクリスチャンたちは、四つに違いがあることを認識した上で、ありのまま、そのまま、手を付けずに受け入れたんじゃないだろうか。
おかげで、四つの福音書それぞれのユニークさが、光に照らされるとホログラムを浮かび上がらせる干渉縞みたいに、イエス・キリストを立体的に提示することに成功しているんだと思う。
今日の聖書の言葉。
この場面。。。最後の晩餐でイエスが弟子たちの足を洗ったという出来事は、ヨハネの福音書にしか記録されていない。
ヨハネって、すごく変わっていて、たとえば。。。
神の栄光であるイエスについて「わたしたちはその栄光を見た」と第1章で歌いあげているのに、イエスが栄光の姿に変わった「変貌山」の出来事を、なぜか記録していない。
「わたしは命のパンである」というイエスの言葉を取り上げているのに、最後の晩餐でイエスがパンとブドウ酒を取って行った「聖餐」の出来事を、なぜか記録していない。
ヨハネはペトロとヤコブと一緒に「変貌山」(タボル山ともヘルモン山とも)に登って、栄光の姿に変わったイエスを目撃したからこそ *¹、「わたしたちはその栄光を見た」と書いているはずだし *²。。。
「愛されている弟子」として最後の晩餐でイエスの隣りに席を与えられ、パンとブドウ酒を取ってイエスが行った「聖餐」を *³、イエスの胸によりかかるほどの距離(30センチ?)で目撃したからこそ *⁴、「わたしは命のパンである」というイエスの言葉を記録しているはずなんだけど *⁵。。。
たぶんヨハネは、ぜーんぶわかっている上で、あえて書かない、という手法を取ったのかもしれない。
書かないことで、かえって浮かび上がらせる手法。もちろんそれは、マタイ、マルコ、ルカの福音書がすでに先立って存在している、っていう前提で可能になると思うんだけど。。。
変貌山と聖餐を、大胆にカットし、そこに「弟子の足を洗うイエス」*⁶ をぶっこむことで、ヨハネが言いたかったこと。
それを想像してみる。。。
神の栄光であるイエスは、命のパンとして、イエス自身のすべてを、あなたに与えてくれている。だから、こころゆくまで、命のパンであるイエスを食べて、あなたのうちに受け取りなさい。
でも、あなたは、イエスの栄光に目を奪われるだけでなく、命のパンであるイエスを食べ続けるだけではなく、身近の「誰か」の前にひざまずいて、足を洗ってあげなさい。どんなに汚れていても、洗ってあげなさい。たとえ、裏切り者の足であっても、洗ってあげなさい。そうすることを、イエスがあなたに望んでいるのだから。
ヨハネが言いたかったのは、そういうことなんじゃないかなあ、と思うんだ。
註)
*1. Cf. マタイ 17:1-8, マルコ 9:2-8, ルカ 9:28-36
*2. Cf. ヨハネ 1:14
*3. Cf. マタイ 26:26-28, マルコ 14:22-24, ルカ 22:19-20
*4. Cf. ヨハネ 13:23-25
*5. Cf. ヨハネ 6:35
*6. Cf. ヨハネ 13:4-15 この箇所の直前で「万物がイエスの手にゆだねられた」(13:3) と言われている。文字通りに受け取るなら、その瞬間、全宇宙の全要素がイエスの手にゆだねられ、イエスは万物を自由に支配できるようになった、そして、その状態でイエスは、裏切り者のイスカリオテのユダを含む12人の弟子の前にひざまづき、彼らの足を自分の手で洗ったことになる。それはつまり、イエスは万物を支配できる手でもって他人の汚れた足を洗った、ということなのだ。
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