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超未熟な自分は、中庸を生きられるか、っていう話です。

おだやかな気持ちで生きるには、やっぱり中庸ちゅうようの道を心がけなきゃいけないんだろうなー、と思う。

【中庸】どちらにも片寄らないで常に変わらないこと。 過不足がなく調和がとれていること。 また、そのさま(by 精選版日本国語大辞典)

でも、中庸ってなかなか難しい。人間って、どうしても両極端で物事を見ようとしてしまうから。極端に最善を想定するか、極端に最悪を想定するか。自分もよく片寄ってしまいがちだ。

不思議だよね。極端が好きなんだろうか。まあ、テイストが濃ければ濃いほど魅了されてしまう、ってところがあるのかもしれない。

でも、現実には両極端の間に無限のグラデーションが広がっていて、ほとんどの物事は、うすーい善であったり、うすーい悪であったり、そのうすーい混ざり合いであったりするように思うんだけど。。。

今日の聖書の言葉。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
コリントの信徒への手紙二 12:9 新共同訳

人間が常に最悪を想定してしまうのは、きっと、歴史以前の人類の歩みにおいて何度も何度も大厄災だいやくさいを経験して、で、最悪の状況を想定できるタイプの遺伝子が生き残ったからなのかもしれないねー(諸説あります)

逆に、人間が常に最善を想定してしまうのは、そういう大厄災を経験しても絶望せずにポジティブに物事を捉えて、新しい生活の仕方を作り出せるタイプの遺伝子が生き残ったからなのかもしれない(諸説あります)

だとしたら、いま生きている自分のなかには、両方のタイプのご先祖様の生き方が受け継がれている、ってことになる。

しかし、そうだとしても、毎日、毎日、最悪の想定と、最善の想定と、その両極端のあいだでもってグルングルンと自分が引きずりまわされるのは、ほんと、つらい。。。

どうしたらいいんだろう?

今日の聖書の言葉では、およそ人間が想定し得る最高の「善」が、およそ人間が想定し得る最低の「悪」と結び合わされて、ひとつにされた状態を見ることができる。

わたしの恵みはあなたに十分である
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ

これって、どういうことかというと。。。

今日の聖書の言葉を書いているパウロは、持病に長年苦しめられていた。どんな病気であったか聖書は明言していないんだけど、とにかく、病気の発作が起きると絶望的な苦痛を感じたらしい。なのでパウロはその発作を「サタンから送られた使い」とか「とげ」と表現しているんだよね。なんか、想像するだけでも恐ろしい。。。

そんな絶望的な苦痛はイヤだから、パウロはもちろん奇跡的な癒しを求めて祈った。心の底から信じて、願って、求めて、あきらめないで、繰り返し繰り返し、神に訴え続けた。でも、その願いはかなえられなかった。パウロの病気は癒されなかったんだ。。。

聖書を見ると、パウロはあちこち旅してイエスの名によって病気を癒し、悪霊を追い出し、多くの人々を苦しみから解放したことがわかる。ところが、こと自分になると、なぜかそのパワーはパウロに働かなかった。。。

癒しのパワーを持っているのに、自分自身は癒されない。それはつまり、神から委ねられているパワーは、パウロの自由になるものではなく、パウロに帰属するものでもなかった、ってことを示している。

神からパワーを委ねられているのに、そのパワーを委ねられている自分はボロボロ、っていう。。。この状態をパウロはポエティックに「土の器のなかの宝」と表現している。ひびだらけで今にも割れそうな器のなかに、尊くて神聖なものが収められている、っていうわけだ。

わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
コリントの信徒への手紙二 4:7 新共同訳

そして、この認識によってパウロは自分が生きる世界を統合して行くんだよね。人生で想定し得る最悪中の最悪を集約したアイコンとしての「土の器」があって、それは自分自身だ。そして、人生で想定し得る最善中の最善を集約したアイコンとしての「宝」があって、それは至高至善の神そのものだ。で、土の器のなかに宝が入っている。そういうものとして今日を生きる。。。

この認識を受け入れた時にパウロの心に聞こえて来た「神」の言葉が、これなんだ。

わたしの恵みはあなたに十分である
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ

パウロはこの言葉をアーメンと100パーセント受け入れた。その結果として、パウロの生き方はこういうふうに変えられた。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう

それはつまり。。。喜ぼう、喜ぼう、最悪の状態すらも、喜ぼう、っていうことになる。今日の聖書の言葉の続きでパウロはこう言っている。

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
コリントの信徒への手紙二 12:10 新共同訳

。。。満足している、ってパウロは言ってる。ほんと、スゲーよな、って思う。自分はまだぜんぜんその境地には到達できていないから。。。

だって。。。なぜ? どうして? どこなの? まだなの? いやだ! もっと! もっと! あれも! これも! もっとちょうだい! っていう願望ばかり、自分のなかにあるからね。

いや、でも、まあ、そういう未熟な自分をぜんぶひっくるめての「土の器」なんだ、というふうに達観できてしまえば、なんか壁を突破できそうな気もするんだけどさ。。。

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