グラスゴー市の紋章を思う、コロナの夏。
頼みとしていたものが、みーんな無くなって行ったとき、万策尽きた、と思って諦めてしまうのか。。。
あるいは、頼みとしていたものが無くなったことによって、かえって、全然あらたな可能性へ、こころを向けて生きてみようと思うのか。。。
ここって、大きな分かれ目だよね。
今日の聖書の言葉。
ほんとうに、ないない尽くしの今日の聖書の言葉だなあ、と思う。
だって、いちじくも無し。ぶどうも無し。オリーブも無し。小麦も野菜も無し。羊も無し。牛も無し。なーんにも無し。。。
なんにも食べる物、ない。。。どうすんのよ、これ。。。
そうであるにもかかわらず、今日の聖書の言葉は言う。
しかし、わたしは主によって喜び
わが救いの神のゆえに踊る
こ、この状況で、喜び踊るって?!
もうね、ちょっと、アタマがおかしいとしか思えないんだけど。。。
そこは、それ。気を取り直して。。。
頼みとしていたものが、みーんな無くなったとき、もう仕方ないから、神を頼みとするほかない。
で、神は無限のリゾースであるわけだから、神に依り頼むとき、神から無限の供給を得ることができるようになる。
理論的には、そういうことになる。
その結果として「主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る」ということになるはずなんだけど。。。
でも。。。
① すべてのものが尽きる
② だから神に依り頼む
③ 神からの供給を受け取る
④ 無限の供給を享受する
。。。という論理的順序が正しいとしても、ぜったいに②から③へ移行する間にタイムラグ、というか、待たされる時間というのが、あるわけであって。。。
① すべてのものが尽きる
② だから神に依り頼む
<!-- いまここ、待ち時間 -->
③ 神からの供給を受け取る
④ 無限の供給を享受する
その「待つ姿勢」において、われわれは試されるんだよね。
ほんとうに待つことができるかどうか、っていうところを。
試される大地、北海道、どころじゃない。試される大地、オール・ジャパン、どころでもない。試される大地、オール・ザ・ワールド。。。
しかし、今日の聖書の言葉は、その「待つ姿勢」が飛びぬけている、というか、突き抜けている、というか。
今日の聖書の言葉を書いたハバククは ③ の「神からの供給を受け取る」という段階に行く前に、もうすでにスピリチュアルな境地として ④ の「無限の供給を享受する」という状態を先取りして、踊り始めちゃっている感じなのだ。
① すべてのものが尽きる
② だから神に依り頼む
<!-- 待ちだけど④を見込んで踊り始める -->
③ 神からの供給を受け取る
④ 無限の供給を享受する
つまり、なーんにも無いのに、神の無限の供給を先取りして喜び踊ってしまうという構図。
なんだろうね。12月25日になるずっと前の8月上旬からクリスマスのお祝いを始めてしまうような意気込みだ。
今日の聖書の言葉を読みながら、自分はスコットランドのグラスゴー市の紋章を思い出していた。
とっても不思議な紋章なんだけど、その意匠に使われているのは。。。
泳いだことの無い魚
実を結んだことの無い木
歌ったことの無い鳥
鳴らされたことの無い鐘
。。。という、無いものずくめ、なんだ。
それらは、現在の物事の否定的な側面を示している、と同時に、未来への無限の可能性が開かれていることをも示しているんだ。
そうだ。自分のためにも、このグラスゴー市のやつみたいな紋章を作ってみよう。。。そう感じているコロナの夏。。。
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