すべてを削ぎ取った先にある世界。
小西芳之助(1898-1980)という牧師が、かつて、おられた。無教会系の牧師という、とてもユニークなひと。「導源」とも。
無教会というのは、内村鑑三がはじめたクリスチャンの集まりで、特徴は、教団や教派みたいな組織を作らず、「師匠と弟子」という直のつながりのなかで、ひたすら聖書を読み、祈っていく感じ。
小西芳之助は、内村の影響を受けていた点で無教会系だけど、にもかかわらず、高円寺東教会という日本基督教団に属する「教会」を設立して、道を伝えた。これって、珍しいことなんじゃないかと思う。
でも、小西のスピリットは、やっぱり無教会系なので、「自分が逝去したら教会を閉じる」という条件で教会をスタートし、ほんとうにそのようにして、教会を閉じた。
自分は、その教会が閉じたあと、小西の生前の説教を録音テープで聴くという形で行われていた家庭集会に一回だけ出たことがある。。。そこには、60歳から90歳ぐらいの方々がつどっておられて、みんな東京大学の卒業生と聞かされ。。。小西は東大生のためのキリスト教主義の学生寮「同志会」出身だったので、その後輩たちに道を伝えたから、自然そうなったわけだけど。。。でも、当時、中学生の自分は「全員東大」というパワーワードにビビッて、二回目は無かった。
その小西芳之助は、「イエスのみ」ということを、ほんとうに徹底的に説いた。その徹底さぶりたるや、類例が無いんじゃないか、と思うほどだ。
たとえば、ローマ書の講解説教で、小西は、こう説いている *。
ふつうは「自分」が信じることによって、救われる、と考える。自分も、そう思っているんだけれど、でも実は、そこに落とし穴があって。。。なぜなら、それだと、行為の主体は、あくまで「自分」なんだよね。
つまり、「自分」がイエスを信じ、「自分」の信仰が自分を救う、という構造になっちゃってる。
これだと、結局、救われるのは、自分次第、だ。
今日の聖書の言葉。
わたしたちを救うのは、イエスだけ。
なんだけど。。。でも、いつのまにか、「自分」の信仰が自分を救う、に、すりかわっちゃう。
だから、小西は、こう言うんだ。
うおぉーっ。。。言い切った。。。ここまで言い切られると、ほんと、感動しかない。。。
人間を救うのは、「自分」の信仰じゃなくって、どこまでも、イエス、イエス、イエス。ひたすら、イエスなんだ。
なぜ、ただ、イエスなのか。小西は言う。
ところがねー。。。人間の側は何もする必要が無いということを、アタマでわかっていても、信じる気持ちのなかに、いつのまにか「自分」が、混ざり込んでくる。自分は信じる・自分が信じる・自分の信仰・自分に益する信仰・自分を救う信仰・こんな自分でも救ってくれる信仰。。。
自分は~、自分が~、自分の~、自分に~、自分を~、自分で~ が、どこまで行っても、終わらない。。。
だから、小西はこういう解決を示すんだ。
「自分」は、どう信じたらいいの?「自分」は、どう祈ればいいの?「自分」は、どんな信仰姿勢で生きればいいの?「自分」は、どうすればもっとイエスに似た者になれるの?。。。そういう「自分」の妄念を脇へおいて、ただ、イエスの名を呼べばいい。
イエスの名を呼べば、それだけで救われる、と。
イエスさま。。。
呼んだ瞬間、イエスの贖罪の無限の力に、すぐ、あずかってしまうのだ。
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