律法と法律。その厳しさ、その緩さ、その違い。。。
ふだん生活していて、法律を意識することって、あんまりないよね。。。
夜中、目が覚めて、蛇口をひねって、コップの水を飲み干す。。。
その水は「水道法」(昭和32年) によって水質が決められているんだ。
朝、起きて、トーストと牛乳で朝食をすませる。。。
そのパンは「食品衛生法」(昭和22年) によって。牛乳は「乳等省令」(昭和26年) で品質が決められている。
そんな法律、目にしたことすら、ないけど。。。
でも、法律があって、法が守られるよう監督する仕組みがあるおかげで、なーんにも心配することなく生活できるんだなー、と思う。
今日の聖書の言葉。
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
ヨシュア記 1:8 新共同訳
法や、きまりごと。。。
あんまり、たくさんありすぎると、うっとうしい気もするけど。。。
でも、法律は、平穏で安寧な生活を保障してくれているんだよね。
そういう意味では、法律の目的は「愛」だ! って、宗教改革者のカルヴァンは言っているんだ。
日本人の感覚からすると、法律が愛だなんて、あんまり思えない。。。
まあ、水道法や乳等省令ぐらいなら、愛と思えなくもないかなー。。。
だけど、旧約聖書に出て来るモーセの律法。。。
これは、神がイスラエル・ユダヤ人にあたえた法律なんだけど。。。
律法は、読んでると、あまりに厳し過ぎて、アタマが痛くなっちゃう。。。
それでも「愛」なの? って。。。
モーセの律法と、現代の諸国家の法律を比べて見ると、刑罰の厳しさに、すっごい大きな違いがある。
てか、あり過ぎる。
モーセの律法が科す刑罰があまりに厳し過ぎて、それでも「愛」なの? って思う反面。。。
いまの法律が科す刑罰は優しい気がして、神さまはそれでもいいの? というギモンもわいてしまう。
モーセの律法と現代の法律のあいだの「厳しさの違い」については、なんと、カルヴァンは。。。
ちがってて、ぜんぜん、いーんだよ!
。。 と言ってる。
それは、こういう論理なんだ。
ちょっと長くなるけど、カルヴァンの『キリスト教綱要』第4編20章の「政治的統治」から抜粋する。
だいじなとこは、太字にしておいた。
● モーセが公布した神の律法全体の一般的区分は、「道徳的律法」「儀式的律法」「司法的律法」の三つである。
●「司法的律法」は、政治綱領としてユダヤ人に与えられ、衡平と正義の確実な規範を、ユダヤ人に教えた。
●「司法的律法」の形は、神の永遠法が命じる「愛」そのものを、どのように保つかを目指すものにほかならないが、愛の戒めそのものとは区別される何かがある。
●「敬虔」に安全に手を触れぬまま「儀式的律法」を廃棄することができたように、「司法律法」の裁判上の規定を取り去ったとしても、「愛」の恒久的義務と戒めは、存続し得る。
● これが真実なら、どの国民も、自分たちに好都合なことが見込まれるような法を作ることが出来る。しかしそれは、「愛」の永遠法をまっとうするものでなければならず、形は異なっても、目的は同じでなければならない。
● これまで語ったことは、次の二点について、すべての法をしかるべき仕方で調べてみるなら、明確になるだろう。すなわち、法の「制定」という点と、この制定自体が拠って立つ基礎としての「衡平」という、二点である。
●「衡平」は、自然にもとづくものであるから、万人に対して一つのものでなければならない。したがって、この同じ目標は、どんな事情を扱うときでも、すべての法に適用されなければならない。
●「制定」は、状況に沿ったものであり、状況に一部分は拠っているので、すべてがひとしくひとつの「衡平」を目指している限り、諸国の法の間に差異があっても、何ら不都合はない。
●「衡平」の目標をめざし、「衡平」の境界によって枠づけられた法は、たとえ司法律法から異なっていようと、また、諸国の法の間で異なっていようと、これを斥ける理由はない。
● 神の律法は、盗みを禁じている。ユダヤ人社会の中で盗みに対してどんな罰が課されていたかは、出エジプト記に見ることができる。他民族の非常に古い法では、盗みは二倍の刑罰を受けている。これにつづく後代の法は、明らかな盗みと、明らかでない盗みを、分けている。あるものは追放に、あるものは鞭打ちに、あるものは死刑へと進んだ。
● 偽証は、ユダヤ人の間では、偽証した内容と同等の刑に処せられた。ある民族では、ただ重い不名誉を蒙らせるだけだし、ある民族では絞首刑、ある民族では十字架刑を課した。
● 殺人に対しては、すべての法がひとしく血をもって報いているが、しかし、死刑の種類はさまざまである。
● 姦淫に関しては、ある民族ではよりきびしい、ある民族ではより軽い刑が定められている。
● しかし、わたしたちは、このような差異があっても、すべての法は、同じ目標を指していることを知るのである。
● なぜなら、これらは声をひとつにして、神の永遠法によって断罪された犯罪に対する刑罰を宣告しているからである。それらの犯罪とは、すなわち、殺人、盗み、姦淫、偽証である。
● ただ、刑罰の方法については一致していないが、これは必要でも重要でもない。国によっては、極刑をもって処さないと、たちまち盗みや掠奪によって破滅してしまうところがある。また、時代によっては、刑罰の厳しさを増し加えなければならないときもある。民族によっては、厳しく抑えられないと、特定の悪徳に陥るものがある。
● このような「諸国の法の間の差異」は、神の永遠法を厳守するのに、もっともふさわしいものである。
いやー。。。まさか、カルヴァンの口から「みんなちがって、みんな、いい」という、金子みすゞのような言葉が聞けるとは。。。
歴史に「もし」は、ないけれど。。。
もし、カルヴァンがいなかったら。。。
そしたら、キリスト教諸国の法律は、差異も幅も多様性も無い、変更も改変も不能な、ガチガチに硬直したものになっていたかもしれない。。。
で、そういうキリスト教諸国の法律が明治維新で日本に入ってきたわけだから、それを法源とする現代の法律も、モーセの律法みたく、スゲー厳しいものになってたかもしれない。。。
神さま、ありがとう。。。カルヴァン、ありがとう。。。
この世界線、ありがとう。。。
あなたのしもべを引きとめて
故意の罪を犯させず
これに支配されることのないようにしてください
そうすれば
わたしはあやまちのない者となって
大いなるとがを免れることができるでしょう
わが岩、わがあがないぬしなる主よ
どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが
あなたの前に喜ばれますように *
註)
* Cf. 詩編 19:13-14 口語訳
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?