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地上の生活と、天国の生活。その違いは何か、ってことから、じゃあ、地上の生活を限りなく天国サイドに近づけるには、どんな秘訣が要るのか、っていう話です。

地上での生活と、天国での生活。

そのあいだの本質的な違いって、何だろう?

。。。ってことを、ときどき考える。

まあ、天国にはまだ行ったことがないから、比べようがない、っちゃー、ないんだけどさ。。。

永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立ってくれた。それがイエスだ。

そのイエスを信じると、イエスは「聖霊」をとおして、信じる者のココロに住んでくれる。

信じる方法は実に簡単だ。この祈りを唱えるだけだから。

主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪人つみびとであるわたしを、あわれんでください!

じゃあ、唱えました、信じました、イエスがココロに入ってくれました、ってことになると。。。

それはつまり、自分と神がひとつに結ばれた、ってことになるよね。

なにせ、イエス=神、だから。

そこで、ひるがえって「天国」とは何か、ってことを考えると。。。

自分と神が一緒にいる状態。それが、天国の本質的な要件なんじゃないかと思う。

で、自分は、いま・この瞬間・地上に生きている。

だけど、イエスがココロに住んでくれて、自分と神がひとつに結ばれて、自分と神が一緒にいる状態になっているのであれば。。。

。。。であれば、極論すれば、地上にいながらにして、いま・もう・すでに自分は「天国」にいる、って言っちゃって、いいんじゃね? 

。。。ってことを、考える。

だけどねー。。。

やっぱ、なんか、違うんだよね。

何が違うんだろ?

今日の聖書の言葉。

悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
ルカによる福音書 6:28 新共同訳

今日の聖書の言葉から気づかされたんだけど。。。

地上にあって、天国にないもの。それは。。。

「悪口」じゃん! ってこと。

ありとあらゆるネガティブ要素が払しょくされた天国では、悪口とか陰口とか、存在しないハズなんだよねー。。。

地上で生きていれば、なにかしら悪口を言われ、だれかしら陰口をたたかれ、それをマトモに受けて気を病んだり、怒りにココロを煮えたぎらせたりする自分がいるわけだけど。。。

でも「天国」には悪口も陰口も、なーい。そこには、どこまで行ってもスカーッとした青空があるだけだ。スバラシイッ。アコガレル―ッ!

しかし「地上」では、そういうわけにはいかないよね。

だから当然、悪口も陰口も、あるものとして、許容して生きて行くしかない。

でもさー。。。

悪口を言われるたびに気を病んでいたら。。。陰口をたたかれるたびに怒りにココロを煮えたぎらせていたら。。。悪口には悪口で返し、陰口には陰口で返し、報復をしていたら。。。

そうしていたら、自分、いるのは地上どころか地獄じゃん?

さっき言ったように、もう「天国」の本質的要件はゲットしているわけだから。イエスがココロに住んでくれて、自分と神がひとつに結ばれて、自分と神が一緒にいる状態になっていて、だから、地上にいながらにして、いま・もう・すでに自分は「天国」にいる、ってわけなんだから。。。

だから、その天国パワーを使って現状を強行突破して行くしかないよね。

あらゆる地獄要素を踏みつぶして行くブルドーザーみたいにさ!

どうやってそれをやるか、っていうと。。。

あらゆる悪口・陰口を華麗にスルーすること。ただ、それだけ。

こちらの反応は、ただ、微笑。まあ、苦笑でもいいけど。。。

でも、微笑だけじゃあ、表面だけで終わってしまうかもしれない。

だから、ココロのなかまで華麗にスルーするには、ココロに習い性をつけて行くしかない。

どういう習い性をつけるかというと。。。

祝福する! 

 
もうね、ただ、これだけ。

ひたすら、祝福する。何を言われても、祝福する。まずとにかく祝福する。途中でも祝福し、最後の仕上げも祝福する。そういう習い性をココロに付けて行くしかない。

そうするとね、灰色だった空が、青く澄み渡って来るような気がするから、不思議だ。

悪口を言う者に祝福を祈り
あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい

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