たとえ、その祈りが通じなかったとしても、恐れない。。。っていう話です。
昨日、戦争当事者である某国の政府が市民に対して「核攻撃に備えよ」と布告したらしい。
その意味については、いろいろ解釈されているけれど、ひとつには、これは核で相手を先制攻撃する準備に入ったことを示す、という意見がある。
もしそうであるなら、いよいよ自分も滅ぼされてしまうのかなあ、ということを考えざるを得ない。
いやだなあ。どうして世界はこんなことになってしまったんだろう。
こうなったら最後の頼みである「神」に祈るしかないよね。
だって、自分はほんとうに無力で、この状況を変えるいかなる手段も持ち合わせていないように思えるから。
いや。そういうふうに威圧して無力感を味あわせ、すべての望みを失わせるのが、先方の狙いであるとは思うんだけど。。。
だとしたら、狙い通りの状態に自分がなってしまうのは、無性に腹が立つ。
いったい、どうやって望みをつないだらいいんだろう。。。
そのためには、滅んでも滅びないものを考えるしかないかもしれないね。
人間はどうやって滅びるんだろう、っていうことを考えるとき、人間をどういう存在として捉えるかで、滅びの機序が変わるんじゃないかと思う。
人間は身体的な存在でしかない、と考えるのであれば、身体が機能停止すれば、滅んだ、ということになるだろうし。。。
人間はスピリチュアルな存在だ、と考えるのであれば、複雑な機序を想定することになるよね。
それはつまり、身体性を超越した永遠不滅の霊魂を考える、ということになる。
今日の聖書の言葉。
神の本に書かれている滅びの機序というのは、こういう流れになるんじゃないかと思う。
裁かれる
↓
罪に定められる
↓
呪いを受ける
↓
死ぬ
↓
陰府に降る
↓
陰府の終極である地獄に至る
こういう流れに自分がまきこまれたら、もうね、最後まで行きつくしかない、と思ってしまう。
だって、自分は無力だから。。。
でも、今日の聖書の言葉は、この流れをイエスが断ち切った、と宣言している。これだ。
神が御子を世に遣わされたのは
世を裁くためではなく
御子によって世が救われるためである
イエスにおける「神」は、神が全人類の代償として死ぬことによって、この流れを断ち切ってくれた。
それはつまり、イエスのゆえに、われわれは裁かれない、っていうことだ。
その結果として、さっきの流れは、こう変わることになる。
裁かれない
↓
罪に定められない
↓
呪いを受けない
↓
死なない
↓
陰府に降らない
↓
陰府の終極である地獄に至ることが決してない
ああ。ほんと、イエスの十字架と復活による世界改変後の流れに乗れることを、ただ、ただ、感謝するしかない。
だって、自分は無力だから。。。
もちろん、身体性がなんらかの理由で外見上滅びるようなことはあるかもしれないけれど。。。
けれど、自分は墓の向こうに期待したい。そこにあるのは、イエスによる罪の赦し・永遠の命・霊魂の不滅・身体性の復活だ。
でもね。。。
問題は、まだあると思う。
もしこういうふうに物事の流れが変わってしまっているのなら。。。
それはつまり、もはや、どんなに酷いことをしでかしても、絶対に裁かれない、っていうことになってしまうなら。。。
だとしたら、この世界はなんでも好き勝手が出来てしまうモラルハザードに陥ってしまわないだろうか?
それじゃあ困るよね。。。
なので、神の本のなかに「例外」が示されているのは、たぶん、そういうモラルハザードに対する抑止力を意図したものなのかもしれないなー、と思う。
たとえば、こういう箇所とか。。。
死んでしまったら、人間は自分の考えも行いも変えることはできないんじゃないかと思う。
だって、考えを変えたり行いを変えたりできるのは、身体性を有することが条件であるわけだから。
だから、まだ身体性を持って生きているあいだに、自分の考えと行いを「愛」の方向に変えなきゃいけないと思うんだ。
名前を言ってはいけないあのひとは、今日もまだ生きている。
生きていればこそ、その考えと行いを「愛」の方向に変えようと思えば、変えることができるはずなんだ。。。
なので、あのひとが改心するように自分は祈ろうと思う。
でも、たとえその祈りが通じなかったとしても、自分が抱いている希望を奪うことは、あのひとには出来ないんだ。
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