豊かさにあこがれながら。。。こんなことではダメだっ。。。っていう話です。
豊かな人生を送りたい、っていうのは、だれでも願うことだよね。
自分もそうだし。。。
じゃあ、豊かな人生って、どれぐらい豊かなら、豊かだって言えるの? ってことになるんだけど。。。
何によって量るんだろうね、その豊かさを?
まあ、自分が豊かだと思えば豊かだ、という主観的要素が大きいわけであって。。。
だから、豊かさは、ひとりひとりのものさしによって違う、みたいな面があるんだろうなー、と思う。
極論すれば、Aさんが「豊かだー」って感じる状態が、Bさんには「貧しい」ってことがあるわけだしね。。。
今日の聖書の言葉。
「はかり」の容量がひとりひとり違うのであれば、ユニバーサルにこれが豊かさだ!って定義するのは、難しいと思うんだけど。。。
でも、今日の聖書の言葉でイエスは面白いことを言っている。
それは、豊かさとは「はかり」があふれること、っていう定義の仕方だ。
あふれるほどに量りをよくして
ふところに入れてもらえる
そりゃ、自分の「はかり」の容量を超えてドバーッてあふれる状態にしてもらえたら、たしかに豊かですねー、と評価するしかないよね。
1世紀のユダヤ人、中世のノリッジの聖女、19世紀末のロンドンの街頭商人、現代の日本人、ビル・ゲイツ、イーロン・マスク、ヒマラヤの洞窟の仙人、シベリアの森に棲む古儀式派の隠遁者。。。みんなそれぞれ「はかり」が違うけど、でも、それぞれの「はかり」があふれる状態になれば、それは、それぞれにとっての「豊かさ」として実感されるはずだよね。
問題は、その「はかり」が、どうしたらあふれる状態になるか、ってことだ。
それについてもイエスは具体的な指示をしている。
それは簡単に言えば、他者に対して自分の「はかり」を超えて生きろ、ってことなんじゃないかと思う。
どういうことかというと。。。
まず、われわれの念願の「豊かさ」について。こういう状態に今すぐなりたいものだ。
あふれるほどに量りをよくして
ふところに入れてもらえる
で、その豊かさに与る条件は、自分の「はかり」の容量をきっちり見据えることだ、と言われている。
あなたがたは自分の量る秤で
量り返されるからである
自分の「はかり」を認識して行動するなら、それに見合った分が与えられる、って言うんだ。
じゃあ、自分の「はかり」に基づいて、どう行動すればいいのか?
それについては、今日の聖書の言葉の直前の箇所で、こう言われている。
イエスは、こう言う。
人を裁くな
そうすれば
あなたがたも裁かれることがない
他人のあやまちを自分の「はかり」で裁く、っていうのは、われわれが普段からやっていることだけど、イエスはここであえて、自分の「はかり」で他人を裁くな、って言うんだ。
さらに。。。
人を罪人だと決めるな
そうすれば
あなたがたも罪人だと決められることがない
自分の「はかり」で他人を罪に定めるな、と言う。やっぱりここでも、自分の「はかり」を超えて生きろ、ってイエスは言うんだ。
さらに、もっと。。。
赦しなさい
そうすれば
あなたがたも赦される
自分の「はかり」に照らして絶対ゆるせない相手を、ゆるせ、ってイエスは言う。超えろ、超えろ、「はかり」を超えろ! のオンパレード。。。
最後の締めくくりが、これ。。。
与えなさい
そうすれば
あなたがたにも与えられる
いやー、なにもそこまでやる義理も道理もないじゃん? っていう自分の「はかり」に照らして、だから与えない、って決めるわけだけど、でもイエスは、自分の「はかり」を超えて他人に与えろ、って言うんだ。
以上。。。
そういうふうに自分の「はかり」を超える生き方をしているなら、結果として、こうなるんだ。
あふれるほどに量りをよくして
ふところに入れてもらえる
さて、現状。自分は「ふところ」のさびしさを感じずにはいられない。。。
イエスの言葉を聞いて、ひとり反省会を小一時間してみる。
そこで感じることは、あー、やっぱり自分は、自分の「はかり」に執着して、自分基準で他人を裁いて・罪に定めて・ぜーったい赦さなくって・惜しんで何も与えない、っていう生き方をしているから、だから、どんどんジリ貧になって行くのは当然なんだなー。。。
そう思わざるを得ない。。。
こんなことではダメだ! さくっ、と回心しよう。
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