知恵が増すほど謙遜になるってことの仕組みについて考えた、っていう話です。
聖書のなかに「知恵文学」と呼ばれるジャンルがある。
旧約聖書におさめられている箴言とかコヘレトの書がそれにあたるんだけど。。。
それを読めば、手っ取り早く知恵がゲットできるかなー、って思って読んでみると。。。
けっこうシビアなことが書いてあるんだよね。
たとえば、こんな感じ。
なんかまるで、ほんとに鼻をギューッとしぼられて血がドバーッと出た経験があるみたいな書き方じゃん?
それよりすごいのが、これ。「いさかい好きの妻」が5回も出て来る。
なんで同じことを5回も書いたのよ? って思うんだけど。。。
よっぽど強調したかったのか。。。それほど切ない思いをしたのか。。。
やっぱり実体験にもとづいて書いたとしか思えないじゃん!
箴言を書いたのは、人類史上最高の知恵の持ち主と称されるソロモン王だったと言われている。
ところが、ソロモンって晩年に道を踏み外してしまうんだよね。
その踏み外し方のスケールがすごいんだけど、聖書はそこもしっかり記録している。
なんでそんな失敗をしてしまったのか、謎だ。
こっから先は自分の想像なんだけど。。。
人類史上最高の知恵を追求したソロモンは、人生の成功も失敗も、すべて自分で体験することによって、実証された知恵のデータベースを作ろうとしたんじゃないかと思うんだ。
つまり、自ら率先して「しくじり先生」になろうとしたのかも、ってこと。
だとしたら、箴言って読み方によっては、こうすれば人生で必ず成功する指南本にもなるし、逆に、こうすれば人生で必ず失敗する指南本にもなるんじゃないかと思う。
その帯のPRにはこれがふさわしいかもしれない。
「成功も失敗もぜんぶわたしの体験で実証済みです。by ソロモン」
今日の聖書の言葉。
知恵とか分別って、こうすればうまく生きられる、っていう情報なわけだけど、実はそれは先行する膨大な数の失敗で裏付けられていて、だから、人類史のバックヤードには失意のうちに死んだ人たちの墓標が地平線まで続いているんじゃないかと想像してしまう。
正直に自分を見つめるなら、失意のうちに死んだご先祖さまや先人たちに比べて、自分が少しでも優れているなんて、とても言えないわけであって。。。
そんなことを思いながら箴言を読んでいると、なんかまるでソロモンが「オレの屍を超えて行け!」って言ってくれているように感じられるんだよね。
そうであるなら。。。
知恵が増すほどその人は柔和で謙遜なキャラクターになるはずだよね?
だって、知恵は先人たちの失敗で裏付けられたリゾースなわけだから。
そして、知恵がなければ自分も同じように失敗していたに違いないから。
知恵が増せば増すほど、だから、柔和で謙遜になるはず。。。
あなたがたの中で
知恵があり分別があるのはだれか
その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを
立派な生き方によって示しなさい
ところが。。。
もし知恵が増すことで高慢な人間になっちゃったら、オソロシイことに人生でつまづくコースを確実に行ってる、ってことになるんだよねー。
だって、箴言ですでにこう言われているから。。。
クワバラ。。。クワバラ。。。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?