人生最強のモチベーションを与えてくれる、超絶凄いメンターがいますよ。それは。。。っていう話です。
生きる上でのモチベーションってことを考えるとき、いろんな状況や環境に左右されないモチベーションがあれば、最強だろうなあ、と思うんだけど。。。
だって、風向きが変わったら簡単に下がっちゃうモチベーションだったら、朝は良くても、午後からダメダメとか、すぐなっちゃうじゃん。。。
今日の聖書の言葉。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
ローマの信徒への手紙 10:10 新共同訳
どういうモチベーションだったら、いいんだろうね。。。
努力目標があって、簡単に到達できるわけではないんだけれど、頑張ればなんとか手が届くぐらいの距離があって、で、手が届くことによって達成感が得られる、みたいなのが、いいんだろうけど。。。
これが、お釈迦さまの前世みたいに1000億年の1000兆倍ぐらい座禅をしないと、悟り、ひらけませんよー、ってぐらい途方もない距離感だったら、もうね、ぜんぜんモチベーションとして成立しないわけであって。。。
どれぐらいの距離感が、いいんだろうね。まあ、最長 10年ぐらいだろうか。10年頑張っても手が届かなかったら、あきらめるしかないと思うよね。
でもさ。。。もし、遠い未来を見通せる超絶メンターみたいなひとがいてさ。。。そのひとが、自分の人生の行きつく先を見極めてくれてさ。。。その上で、こう言ってくれるとしたら?
ダイジョウブ。あきらめるな。オマエには見えないだろうが、オレには見えてる。ゴールするお前の姿がオレには見える。間違いない。オレが保障する。だから、あきらめるな、って。
まあ、問題は、そんな超絶メンターが現実にいるか、ってことなんだけど。。。
自分は、いる、と思う。それが「神」なんだと思う。
実に、人は心で信じて義とされ
口で公に言い表して救われるのです
神は、時空の連続体を超越しているわけだから、神の目には、時間の始まりも「いま」として見えているし、時間の終わりも「いま」として見えているハズなんだよね。
ってことは、この自分の最後がどうなるか。。。それは、自分にとっては、まだ見ぬ未来でしかないんだけど。。。でも、神の目には、それが永遠の「いま」として、もう見えているハズなんだよね。。。
神は SNSをやってないけど、もし神が、未来をすべて見通した上で、自分に「いいね」ボタンを押してくれたら、それはスゲー励ましになると思う。
今日の聖書の言葉には「義とされる」っていうコトバが出て来る。これは、神のココロが完全に満足する、ってことだと自分は理解している。
スゴイのは。。。信じられないぐらいスゴイのは。。。神が、この自分を見て、自分について、神のココロが完全に満足する、ってことなんだよね。
あるわけないじゃん、そんなこと、フツー考えたら?
でも、聖書は、それが可能だ、いや、それはもう起きている、って言うんだ。その証拠聖句が、これ。
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ローマの信徒への手紙 3:24 新共同訳
罪人のカシラである自分。その自分を見て、神のココロが完全に満足して、「いいね」ボタンを押してくれる。。。どうしてそんなことが可能なんだろう?
こういうことじゃないか、と自分は想像している。
神は、イエスを十字架につけ、復活させた。で、神は、神の考えのなかで、この自分をイエスのなかに含め入れることにした。どうしてそうするのか、と言うと、いや、神がそうしたいから、そうした、としか言えないんだけれど。。。
すると、どうなるか、と言うと、自分はイエスのなかに含め入れられたことによって、イエスと共に十字架につけられて死に、イエスと共に復活して、いま自分は、あたらしい自分になっている、っていうことになる。
その証拠聖句が、これ。
次の言葉は真実です。 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、 キリストと共に生きるようになる。」
テモテへの手紙二 2:11 新共同訳
じゃあ、あたらしい自分、っていうのが、自分の目にはっきり見えているか、って言うと、残念ながら、それはいま、オボロゲにしか見えない。
でも、さっきも言ったように、神は、いま・もう・すでに永遠の「いま」を見ているハズなんだよね。
自分は、それを信じたい。いま神の目に、完成され完全にあたらしくなった自分の姿が、もう見えているんだ、っていうことを。
だから、神のココロは完全に満足するんじゃないだろうか。。。
っていうか、神は満足する以外の選択肢を持てないんじゃないだろうか?
だって、神は神が願ったとおりの結果をすでに得て、それを神の手のなかにもう持っているわけなんだから。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
コリントの信徒への手紙一 13:12 新共同訳
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