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Zoomの全員画面を見ながら感じた、宗教改革2.0というか、4.0? いや、7.0?

『教会の祈り』(時課)の今朝の共同祈願では「すべてを一つに集めてください」という祈りをささげた。

自分的には、ほんとうにアーメン、アーメン、アーメンと言うしかない。

なぜなら、そう祈らなければならない現状があるから。

それは、クリスチャンたちの分裂、という現状だ。

クリスチャンたちのなかで起きた最初の大きな分裂は、1054年のいわゆる「大シスマ」と言われるもの。

東と西、ギリシャ語圏とラテン語圏。その地理的・文化的な特色の中で、1000年近い信仰の歩みが積み重ねられ、東西のクリスチャンたちの間にいろんな違いが生まれ、それはついにお互いが許容できないレベルに達して、東西の教会は「もうあなたとは一緒の食卓に着くことはできません」と相互に宣告して、分裂してしまった。

1430年代には、東西の関係修復のためにフィレンツェ公会議が開かれて、和解寸前まで行ったんだけど、東から来た代表団の一人が反対の意思表示をしたために、お流れとなってしまった。

1517年には、マルチン・ルターが贖宥状の販売手法に疑義を唱えたことから大論争になり、西のほうはカトリックとプロテスタントに分裂した。

その分裂を修復するため、1545年にトリエント公会議が開かれて、プロテスタントにも参加が要請されたんだけど、それはかなわず、20年にも及ぶ議論の末、結局この公会議はプロテスタントを糾弾して閉会した。

その後、西ではカトリックとプロテスタントの内戦になり、イギリスではカトリックの国王とプロテスタントの国民のあいだで内戦となった。この内戦期にプロテスタントが作成した「ウェストミンスター信仰告白」は、ローマ教皇を黙示録に出て来る反キリストだと同定している。

こと、ここに到ると、もはや、一致できる見込みは、とほうもなく遠いよね。。。だってさ、相手を反キリストと罵倒しちゃってるんだもん。。。

今日の聖書の言葉。

忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
ローマの信徒への手紙 15:5-6 新共同訳

神は、人類を救うため、その愛するひとり子であるイエスを地球に送り、ひとの形をとらせた。そして、人間の罪過・苦悩・悲哀をイエスのうちに集めて、十字架につけ、古い命を終わらせ、三日目に復活させてくださった。

こうして、イエスに結ばれたものは、新しい命を生き始める。

その、新しい命を生きるにあたって、クリスチャンたちは、教会に集い、賛美と祈りをささげ、教えと励ましをし、食卓に着いて交わりをする。

それは、物理的な空間に集まる、ということだから、集まったひとたちの視覚的中心(フォーカルポイント)が設けられ、その固定された一点に向かってささげる礼拝の所作が積み重ねられることによって、慣習が生まれ行く。

そういう積み重ねを、別々の場所で、あんまり交流もせず1000年以上続けていれば、そりゃ当然、お互いに異なる慣習になってしまうよね。そして、自分が生まれ育った慣習にいちばん愛着があるわけだから、当然、相手がこっちに譲れよ、という気持ちになる。

それをね、もしかしたら、ぜーんぶ、ちゃぶ台かえししかねないのが、このコロナ禍かもしれない、と思う。

いま、代替的にZoomを使ったオンライン礼拝が行われているけど、そこでは、クリスチャンたちがお互いの顔をダイレクトに見て、賛美、励まし、教え、礼拝、交わりができるんだ。

とっても不思議な感覚だけど、Zoomは物理的な空間に集まっているわけではないので、所作がすっぽり欠落しているように思えるんだよね。。。つまり、所作の積み重ねによる慣習が生まれる余地が無いのかもしれない、と自分は考えている。

これが、どう展開していくのか、わからないけど。。。

イエスに結ばれた者どうしが、同じ思いを抱き、心を合わせ、声をそろえて、父である神をたたえることができますように。


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