恐怖の大王アンゴルモア。。。どこに行っちゃったんだろう(遠い目)
恐怖の感情というのは人生を凍り付かせてしまうよね。思考が停止し体が動かくなってしまう感じだ。
もし生き物の生存戦略として恐怖の感情があるんだとしたら、捕食者を前に体が固まってしまうのは、逆に不利に働くと思うんだけど。不思議だ。
もしかして恐怖の感情が失神のトリガーになって、苦痛を感じずに犠牲になれる仕組みなのかな。だとしたら怖すぎる。
いや。もしかしたら、恐怖の感情っていうのは、未来を遠くまで想像してしまえる人間に特有の感情なのかもしれない。
だって、多くの生き物は最長5分ぐらいの時間の見通しで生きているとされるのに対し、なぜか人間だけは1年後、10年後、100年後、1000年後、56億7千万年後とか想像できてしまうわけだから。
考えて見ればおかしな話だよね。自分が死んだ1000年後を考えても、意味あるわけないのに。それとも1000年後の子孫や仲間への思いやりがそうさせるのかな。だったらそれは、やさしさなのかな。
きっと、異常なまでに発達した人間の想像力がマイナス方向に働く結果が恐怖の感情なのかもしれない。
ありとあらゆる不安要素と危険要素を総動員して未定の未来に配置しまくり、あれがああなったらどうしよう、これがこうなったらどうしよう、って、常に最悪の結果を想像して恐怖してしまうんだ。
想像力が描く脳内の映像はリアルだ。時に現実を凌駕するぐらい迫力があるかも。
今日の聖書の言葉。
人間の想像力を麻痺させることはできないし、人間から未来を見通す能力を奪うこともできない。
だとしたら、想像力が無駄に悪い方向に働かないよう工夫するしかないよね。
ただし、適切な想像力✕恐怖の感情の使い方はあるわけで、津波対策、地震対策、安全保障対策、リスク対策なんかは適切なものだ。それをやるからこそ社会の持続的な発展が可能になるわけで。
でも、人生が凍り付いてストップしたり、生きる喜びがぜーんぶ奪い取られたりしたら、それは想像力✕恐怖の感情がマイナスに行き過ぎてると思う。
恐怖を招来する想像力って、たぶん、個人が持つ世界観に大きく左右されるんじゃないだろうか。
世界観。自分が生きる世界がどういう構造をしているか、ということについての認識の枠組み、とでも言ったらいいのかな。
鎌倉の豆粒町から一歩も出ずに生活していて、不安要素と言ったらピクニックのサンドイッチをトンビに狙われることぐらい、という世界に住んでいる自分(安野モヨコ『オチビサン』)と。。。
恐怖の邪神によって創造された地球で、太古の眠りから覚めた怪物たちが次々と闇から忍び寄る、という世界に住んでいる自分(H.P.ラヴクラフト『クトゥルフ神話』)と。。。
これらを比べたら、明らかに想像力✕恐怖の感情のボリュームが違うよね?
世界観。あるいは、世界の構造に対する認識の枠組みは、自分が生まれ育つ過程で形づくられるものであり、そういう意味では所与の条件だ。
でも、ある程度年齢が行ったら、世界の認識の枠組みは自分の自覚的な選択で変更することが可能なんじゃないかと思う。
主体的選択による世界観の変更、というわけだ。
クリスチャンはよく「回心」という言葉を使う。それは、神を知らないで生きていた自分が、神の恵みにより救われて、神を神と認めて生きるようになる、その精神的な転向というか回転を意味するんだけど、それはまた、世界観の変更ということでもあるんじゃないかなー。
自分にとって、いま、恐怖を感じるものはいろいろある。コロナ、隣国からのミサイル、米中開戦、AIの暴走、UFOの大挙襲来、ベテルギウスの超新星爆発。。。
でも、中学2年のときにイエス・キリストを信じて「回心」した結果、世界を見る枠組みは、自分の場合、基本、次のように変わっている。
永遠で無限の存在である創造主がいて
創造主は愛であり
その愛を体験するために
自分は永遠の命を生きている
この世界観の枠組みは、永遠で無限の愛であるわけだから、恐怖要素は最終的にぜーんぶフレームから排除されてしまうことになる。
なので、恐怖に対する自分の反応は、「怖いけど。。。まあ、いっか」ということになる。そして、心のフォーカスを神の愛に向けるんだ。
怖いなあ、と思う時に自分がよく読む聖書の言葉も、平安を経験する助けになっている。
こういうのだ。
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