プレゼントを拒否られたという、せつなさ、について、つらつら考えてみた、っていう話です。
聖書を読んでて心が痛くなる箇所っていうのが、いくつかあるよね。。。
たとえば、カインとアベルのストーリー。
この兄弟は神にささげものをしようとしたんだけど。。。
なぜか「神」は兄のささげものを喜んでくれなかった。。。
せっかく用意したのに。。。せつない。。。
今日の聖書の言葉。
つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。
コリントの信徒への手紙二 9:6 新共同訳
どうして「神」は兄のささげものを受け取ってくれなかったんだろう。。。
説明は聖書に書いてないので、想像するしかないんだけれど。。。
でも、まあ、想像しても、ほんとうのところは、わからないよね。神には神の理由があったんだろう、ってことは、わかるけど。。。
だれかにプレゼントをするって、だから、ほんと、難しいことだよなあ、って思う。
自分もプレゼントを用意して突き返された、っていうカナシイ経験をしたことがある。。。
どうして突き返されたんだろう。。。考えても、考えても、理由はわからなかった。。。
でも、相手のココロに何かがフィットしなかった、ということだけは、確かだよね。。。
プレゼントを選ぶとき、最高のものをあげたい、と願いながらも、予算には当然、限度があるわけだから、限度内で考えるしかない。。。
限度内で考える時、相手と予算を比較考量して、この相手にはこれはモッタイナイよなあ。だからレベル落としてこの程度でイイか。。。っていう思考が働いてしまうと、結局、それはそういうプレゼントにしかならないよねー。
っていうことを思うと、なんか、自分、毎回、モッタイナイ、しか考えてないかも(笑)
もしかして、もしかしたら、あのカインも、神へのささげものを準備しながら、モッタイナイよなあ、レベル落としてこの程度でイイか、って考えてしまったのかもしれないね(諸説あります)
プレゼントってことを考えると、「神」は一世一代の渾身のプレゼントをクリスマスに行ってくれたわけだけど。。。
永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立ってくれた。それがイエスだ。
これって「神」が神のすべてを・あまさず・のこさず・ぜーんぶ人間にあたえた、ってことを意味するんだよね(by トマス・アクィナス)
よくよく考えてみたら、スゴイことだと思う。。。
だって「神」は神のすべてをプレゼントとして差し出している、ってわけだから。。。
もし「神」のココロに、ほんの少しでも出し惜しみがあったら、こんなことは絶対に起きなかったんじゃないだろうか。
「神」は神自身を惜しむことなくアースフィールドに蒔いた。それがイエスで、イエスというプレゼントを受け取った人類は、神のいのちにあずかる。
惜しまず豊かに蒔く人は
刈り入れも豊かなのです
でも、もちろん、すべてのひとがそのプレゼントを欲しがるわけじゃあ、ない。「いりません」「けっこうです」っていうひとは、むしろ、増えているんじゃないのかな。。。理由は。。。わかりません。。。
出し惜しみして拒否られる、っていうのも、せつないけれど、一世一代、渾身のプレゼントをして拒否られる、っていうのは、もっとせつないよね。
最高のクリスマスのプレゼントが拒否られる、っていう「せつなさ」は、論理的に考えると、その線上を進んで行って、十字架という出来事に帰結するんだと思う。
イエスのストーリーが拒否られてオシマイだったら、それは、ほんとのほんとにせつないわけだけど。。。
でも、感謝なことに、十字架の直後に復活の出来事が起きた。それが復活の栄光のイエスだ。
プレゼントを拒否られた経験のある自分は、この復活の栄光のイエスのなかに、なんだか、胸がすーっとする思いがするんだ。。。
いや。。。べつに。。。自分の手元に戻って来た、あのプレゼントが復活するわけじゃあないんだけれど。。。
でもね。。。なんか、気持ち的に救われる感じがするんだよね。。。これって、わかるひとには、わかるでしょ?
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